二元

あなたがもし善人と呼ばれているなら、あなたの周りには悪人がいる。

善人とは、悪人に対比した用語だからだ。

この世に悪人と呼ばれる人たちがいなければ、あなたは決して善人とは呼ばれない。

あなたはただの普通の人だ。

 

あなたがもし大金持ちと呼ばれているなら、あなたを支えている貧乏人がいる。

ずば抜けたお金持ちは、搾取なしでは維持できない。

莫大な利益を生むビジネスは、どこかの誰かを大勢搾取することによって成り立っている。

この世に搾取される弱者がいなければ、あなたは決して大金持ちにはなれない。

あなたはただの裕福な人だ。

 

あなたがもし男性と識別されているなら、あなたを異性と意識する女性がいる。

女性があるから男性がある。

あなたは絶えず異性を指向し、異性と交わろうとする。

そのエネルギーが新たに性別化された個体を殖やし、新たなエネルギーを生じさせる。

女性がいなければ、男性はエネルギーを温存しながら生きるだけだ。

 

あなたがもし光を求めるのなら、 あなたは闇をも受け入れねばならない。

闇の上にしか光は現れない。

光が愛に満ちた恍惚であるとき、闇の冷たい無限の怖れに包まれている。

光は闇に際立たされている。

 

 

「期待」の罪

私は他人とはほとんど全く口論することはないが、家族とはしばしば口論をする。これは、他人に対して期待をしていない一方、家族には勝手に期待をしているからだと思う。

  

期待というのは、実に利己的な心の状態で、相手の都合や思惑に関係なく、一方的に相手の言動が自分に利益や楽しみをもたらすはずであろうことを待っていることである。家族を形作る前であれば、まだ他人である恋人のような恋愛関係にある相手にも、様々な期待を絶えず抱きながら過ごすことだろう。

  

もちろん、この期待というエゴ的要求の発想は個々人から排除すべきであり、お互いに期待をしない人間関係を築くべきである、という命題は各方面の説教者から掲げられてはいるが、一般的な人で実際に他者に対する期待を皆無として生活している人はほとんど見当たらないのではないかと思う。人によっては、期待を抹殺すべく常々意識を張っている場合もあるだろうが、逆に期待の罪を意識することなく、期待が人間にとって自然で害悪のないごく日常的な意識であるかのごとく捉えている人も少なくないだろう。

  

ただ、期待されるのが好きな人たちもそこそこいる。自分の才能と努力の結果を自分に期待し「期待に胸が膨らむ」状態にある人や、周りの人たちから期待されること、つまり、望ましい結果を得たときに誉めそやしてくれる前提をつくることが得意な人たちだ。彼らは、一種の「期待中毒」であり、期待される自分がアイデンティティとなり、ひっくり返せば、期待されないと自分が喪失してしまうのかもしれない。こういう人たちは、いざ、自分が自分自身や他人の期待を裏切る結果を出してしまうと、失敗者としての罪悪感を持ち、ひどい場合は廃人となり、良くても、次の期待に応える機会に到達するまでは罪人として苦い思いをしながら生きていく。しかし、この手の人たちは、比較的大きい期待をされている人たちであって、往々にして、期待されることをモチベーションにして、それなりのこと、時には偉業を成し遂げたりもする。

  

問題は、こういった大きな期待ではなく、日々無造作に発射しまくられている小さな期待である。自分が作った料理をおいしく感じてくれる期待、あげたプレゼントを気に入ってくれる期待、新しい服を格好いいと思ってくれる期待、自分の提案に同意してくれる期待。そんな一方的で勝手な期待に添えなかった相手に対する不機嫌で批判的な態度は、相手からすれば横暴以外の何物でもない。自分は普通に生活のひと時を過ごしているだけなのに、相手が勝手に何かをおっ始め、勝手に賛美を期待し、勝手に裏切られ、勝手に傷ついて、勝手に攻撃する始末なのである。

 
 つまり、期待は利己的な欲求であるがゆえに、相手に対する真の理解や愛情に欠け、当然の結果として、付随する行動は相手に伝わるものとはなりにくい。逆に、期待という利己心を退け、単純に相手を喜ばしたい、相手の実になることをしたい、という動機と心情で行ったことであれば、結果的に相手を利することになり、ひいては自分もまた喜びを得れるであろう。
  
結局、ポール・マッカートニー師匠が歌った、「あなたが得る愛は、あながた与えた愛と同等である」という大原則を忘れてはならないのである。
 
 
 

一切判断しない

自分の世界に起こったあらゆる事象について判断を下さないことを心がけている。

 

例えば、自分以外の人の言動に対し、正しいとか間違っているとか、好ましいとか好ましくないとか、判断のニュアンスは多様だが、そこで常に行っているのは、相手自身ではなく自分という観察者の立場から勝手に、自分の経験や価値観だけでなく、その時の気分までも材料にして判断を下す、という誠に一方的な見解である。多くの自称知的な人たちは、「出来る限り相手の立場に立って客観的に判断しています」と言うだろうが、相手の生い立ちや今までの経験やその時の状況、さらに心情を直接感じることは不可能にもかかわらず、相手の立場に立ったつもりになったり、ましてや判断を下すなどという態度自体が高慢なのである。

 

やるとすれば、「判断」という断定ではなく、「推測」だろう。推測という態度には、あくまでも自分の経験や知識に照らした上で、間違っているかもしれないけれども、そうではないかと仮定してみる、という謙虚さと、修正の余地を含んでいる。しかし、推測さえも、限りない想像力の織りなした一つのパターンでしかないにもかかわらず、詳細化し過ぎると、イメージが鮮明になり、真実と混同してしまいやすくなるという罠がある。

 

他人ごとではなく、自分自身にふりかかった事象に対する反応においても、判断は避けなくてはならない。

自分が生きている中で起こった予期せぬ出来事や、特に好ましくない事象について、「なぜこういう事が起こったのだろう?」、「この出来事は自分にとってどういう意味があるのだろう?」などと定義づけを行おうとすることがあるだろう。しかしそこでも、自分がこういう原因をつくったからとか、自分の能力、努力、実態などと結びつける判断を下すのは避けた方がいいと思う。そういう断定の積み重ねが、自分自身の能力に限界を築き、精神的にこわばらせてしまうかもしれない。もちろん自分にとって好ましい事象が起こったときでも、過度に自分の運や才能のせいにばかりしていると、奢った人格の形成への助けになるかもしれない。

 

人が何かを決断するとき、それは判断をしているのではなく、選択をしているのだと思う。それを判断をしていると思い込むと、その度に正解を得ている気になり、いつしか自分は常に正しいという錯覚に陥り、自分とは違う見解に対して「間違っている」というとんでもなくエゴイスティックで狭い見識を持って生きていくことになる。

 

判断する癖をやめると、自由が拡大する。人は、ことあるごとに判断しなくてはならない、という勘違いを持っていることが多いかもしれない。しかし、自分以外の人の言動についての正誤の判断は必要ないし、自分自身の状況に対する良し悪しの判断も必要ない。判断をしてしまうと、相手や自分に対する評価が伴ってしまう。誰々のそういう言動は間違っており、間違うということは知性が低い、といった具合の一連の思考を巡らすはずだ。

 

私もあなたも常に自分や他人に対して裁判官の審判のごとく判断する立場も必要もなく、推測のような仮定さえも必要なく、ただありのままを受け取れば、より自由になるだろう。所詮、あなたが見ているあなた自身やあなた以外の状況は、あなたの意識の反映に他ならないのである。

モノも生きている

今でこそ、誰かが物を雑に扱うのを見ると心が痛むが、かつての私はかなり物を粗雑に扱う不届き者だった。青年期頃までの私は、モノを片付ける際は、できる限り投げて済ますようにしていた。ゴミをゴミ箱に投げるのは勿論、帰宅した粗野な小学生がランドセルを玄関から家の中に投げ入れて靴は脱がないままに遊びに出かけてしまうように、私は投げても壊れないと思われるありとあらゆるモノを投げていた。

小、中、高とバスケットボールをやっていたこともあり、できるだけ遠い距離を正確にモノを放ることに美徳さえ感じていた。人にモノを返したりする際でも、多少の空中移動、つまり投げて渡してしまうこともしばしばで、そういった行為は当然相手によっては嫌がられた。いくら少年や青年男子がモノを投げて渡すことが好きで、ときには格好をつけようとしてモノを投げることがあるのは確かだろうが、私の場合はちょっとやり過ぎな感があった。

そういう粗雑な感性の持ち主なだけに、モノは投げるだけではなく、扱い方の一つ一つが雑で力まかせで、自ずと大きな音も立てていた。こういったことを指摘し、たしなめてくれたのは妻だったが、当初は聞く耳を持たなかった。恥ずかしながら、本当にモノの扱い方を反省し改めようと心したのは中年以降のことだった。

 

ある日、幼稚園に入るか入らないかといった年頃の息子と住まいの近所を犬を散歩させながら一緒に歩いていたとき、息子がふと「道は生きている」と言った。私は最初、子供の戯言だと軽くあしらいながら、「へえー、生き物じゃなくても生きてるの?」みたいに返したら、息子は「生き物じゃなくても、全部生きている」みたいなことをさらに言ったような記憶がある。私は当時はピンときていなかった。常識に洗脳されていない幼な子と違い、頭が堅かった。今や小学生を終えようとしている本人は、今ではそんな事を自分が言ったことなど覚えていないどころか、生き物ではない「道」が生きているなどといった感性は消えてしまっているようだ。もうモノは生きていないらしい。

しかし、今の私にとって「道」は生きているし、他の全てのモノも生きている。堅い言い方をすれば、有機物が生きているのは勿論、その有機物の組成要素でもある物質を含めたあらゆる無機物も生きている。「生きる」という言葉の定義にもよるが、意識があるという意味においてしっかり生きている。私に投げつけられ、音が立つほどぶつけられ、言葉どころか気にもかけられなかったかつての私のモノたちは、さぞかし悲しくもあり、腹立たしくもあっただろう。今となっては本当に反省するばかりである。

 

演奏家と楽器との関係、職人と道具との関係、持つことや使うことを喜ぶ人とモノとの関係、そこには間違いなく愛がある。人がモノに感謝と慈しみの波動を伝えている。モノもまた誇りと喜びの波動で応えている。

 

人が愛を注げない対象物は、やがて消え行く運命にある。その人が愛を注ぎ続けることができる対象物しか存続させれないのだ。この対象物はモノだけではない。人を含めた生き物も同様だ。その人の周りがたくさんの美しい人やモノに溢れているなら、その人はそれだけ多くの愛を周りに放ち続ける器とエネルギーを持っているということだ。逆に自分が大した仲間やモノを持ち合わせていないのなら、それは慎ましいからではなく、少なくとも今はそれだけの愛を放つエネルギーしか持っていないからかもしれない。

 

私は、今では小学生を終えようとしている息子に、「モノも生きている」とたびたび言いきかせている。

顔は心の鏡?

人の顔がその人の中身をよく表しているというのは、古くから広く言われてきたことだと思うが、その考えに頼り過ぎると、その人となりを見誤ってしまうことがある。確かに犯罪者のような悪人と呼ばれる人たちの顔は怖かったり陰鬱だったりすることが多いし、逆に、真の慈善家たちの顔は明るく見る者に安心感を与えるような波長が放たれていて、顔だちの端正さには関係なく美しい印象を与えることが多いように思う。

特に、歳を重ねれば重ねるほど、その人が度々作ってきた表情に特有の皺も深く刻み込まれ、その人の性格や人生さえも表れてしまっていることも少なくない。単純に捉えても、自信のある人は堂々とした表情をし、自信のない人は不安げな表情をし、他人を威圧したがる人は威圧的だったり恫喝的な表情をし、他人と争うつもりが毛頭ない人は自分は無害で平和的ですと言わんばかりの控え目な穏やかさを表しているものである。

 

自分自身の顔が周りにどういう印象を与えがちなのかを客観的に見ることは不可能なので、自分のことは棚に上げて言うと、私も若い頃からずっと「人の顔にはその人の中身が表れている」という考えの支持派であった。ところが、たまに見込みが外れてしまうことがある。ちょくちょく身近に見かけていた嫌な顔をした他人で、頭は悪そうなのに高慢そうだと、勝手に私から内心決めつけられている人がいた。ところが、ひょんなことからその人と長い時間話をすることになり、実際に接してみると、頭はスマートで客観的な視点もあり、控え目で物事を決めつけない人だった。会話している相手の顔は穏やかでもあった。私は「やられた」と思った。私は「間違っていた」と反省した。

 

顔でその人を判断するということが、時には罠なのだ。しかも自分でしかけた。人は相手を自分の見たい顔にして見るということを忘れてはいけないと思った。私の脳に映した相手の顔の画像は、レンズからの画像を修正やエフェクトをかけずにありのまま写すカメラとは違い、私の先入観や思い込みによって歪められているのだ。

多くの動物もそうだが、人も通常は二つの目で対象物を見る。その場合、片目ずつから見た画像は角度も違い重なる部分もある。これは片目を手でふさいで同じ対象物を左右交互に見てみるとよくわかる。両目で同時に見た場合、角度の違いによって対象物までの距離感を得るのと同時に真ん中が重なり合う角度の違う二つの画像を脳の中で組み合わせて一つの画像に処理している。この処理をせざるを得ないことで生じる不可欠な曖昧さや柔軟性の部分に付け入って、見る人の感情や思い込みが画像にエフェクトをかける余地を与えている。

だからこそ多くの人が、自分自身や家族、自分の味方をしてくれる人の顔を好意的に捉え、また逆に素性の分からない人や好きとは思わない人の顔を敵対的に捉えがちなのだろう。

この脳の先入観による画像エフェクト処理をなるべく働かせず、できる限り中立的で写実的な像を見ることができたなら、実は日常的に行っている主観的なブラスマイナスのデフォルメを避け、より良い人間関係の機会を損なうことを減らすことができるだろう。

留意すべきことは、人が何かを「見る」という行為は、ありのままを脳に写す作業ではなく、自分が対象物にどんな印象をもっているかを認識する作業である、ということだ。だから、あなたも、かつてはどこをどう見ても愛おしく見えた恋愛相手の顔が、やがては造りに粗のある意地悪や間抜けな顔に見えてしまう、という経験を持っているのだ。

全ての関係は「主従関係」

複数の人の間にある関係のほとんど、いや、もしかしたら全てにおいて、主従の立場が成り立っている。単純な形から極めて複雑な状態までを含め、主従関係というものは確実に作用している。

子供がある一定の年齢に達するまでの親子関係。職場における上司と部下だったり、色んな世界における先輩後輩。子供同士のみならず大人同士にもある強い者と弱い者。ありとあらゆる関係が主従で成り立っている。

夫婦や恋人同士にも顕著で、特に夫婦関係においては、日本には「亭主関白」や「かかあ天下」という言葉に表れている。妻に上手に転がされ支えられた亭主関白もあれば、おだてられたかかあ天下もあるので、文字通りの単純な関係とは限らないものの、多くの夫婦関係には不公平や場合によっては搾取さえも存在する。

また、ある関係によっては、時と場合で主従が入れ替わり、うまくバランスをとっていることもある。しかしながら大抵の場合は固定した主従関係であり、親と年齢の低い子供や上司と部下、先輩後輩などの場合は行き過ぎない限り問題にはならないとしても、同年代同士やお友達、そして男女間など、本来横のつながりであるはずのところに根付いた主従関係はしばしぼ問題を引き起こす。
家庭内暴力であったり、いじめであったり、主が従をねじ伏せるための威圧行動は従にトラウマ的な傷を負わせ、破綻さえも困難な拘束関係に発展し、時には主が従を死へと追いやってしまうことすらある。

一方、喜んで主従の従を受け入れる人たちもいる。人によっては、責任や判断を苦手として他者に委ねるという従の安易さに甘んじる生き方を選ぶこともあり、こういった場合は、引き換えに自らの自由を多少なり主に献上することになる。
また逆に、自分のリーダーシップ的素質や聡明さを相手にかわれているために、好まざるながらも主を振る舞う人もいる。

公平な立場をとっているように見える親友同士の間にも、どちらかがより頼りにされていたり、何かがより得意だったりする優劣を基にした主従関係が必ずと言っていいほど存在している。

何も主従関係の全てが悪いのではない。社会的組織内において有効で不可欠な主従関係もたくさんあるし、そこには主従関係の認知や了解がある。

ただし、無意識であれ了解の無い主従関係は主の従に対する詐欺や搾取であり、そこで一方的に取得される利益の大小にかかわらず、主は自分自身から産出できる以上のエネルギーを従から利用し、従は常にエネルギーを吸い取られ続ける立場となる。

逆に好ましい主従関係とは、主の余りあるエネルギーを不足しがちな従にまで分け与える関係であるが、残念ながらこのように見える関係の多くが、実はこの形態を装った巧みな搾取関係であり、多くのリーダーシップというものの実態はこれである。