モノも生きている

今でこそ、誰かが物を雑に扱うのを見ると心が痛むが、かつての私はかなり物を粗雑に扱う不届き者だった。青年期頃までの私は、モノを片付ける際は、できる限り投げて済ますようにしていた。ゴミをゴミ箱に投げるのは勿論、帰宅した粗野な小学生がランドセルを玄関から家の中に投げ入れて靴は脱がないままに遊びに出かけてしまうように、私は投げても壊れないと思われるありとあらゆるモノを投げていた。

小、中、高とバスケットボールをやっていたこともあり、できるだけ遠い距離を正確にモノを放ることに美徳さえ感じていた。人にモノを返したりする際でも、多少の空中移動、つまり投げて渡してしまうこともしばしばで、そういった行為は当然相手によっては嫌がられた。いくら少年や青年男子がモノを投げて渡すことが好きで、ときには格好をつけようとしてモノを投げることがあるのは確かだろうが、私の場合はちょっとやり過ぎな感があった。

そういう粗雑な感性の持ち主なだけに、モノは投げるだけではなく、扱い方の一つ一つが雑で力まかせで、自ずと大きな音も立てていた。こういったことを指摘し、たしなめてくれたのは妻だったが、当初は聞く耳を持たなかった。恥ずかしながら、本当にモノの扱い方を反省し改めようと心したのは中年以降のことだった。

 

ある日、幼稚園に入るか入らないかといった年頃の息子と住まいの近所を犬を散歩させながら一緒に歩いていたとき、息子がふと「道は生きている」と言った。私は最初、子供の戯言だと軽くあしらいながら、「へえー、生き物じゃなくても生きてるの?」みたいに返したら、息子は「生き物じゃなくても、全部生きている」みたいなことをさらに言ったような記憶がある。私は当時はピンときていなかった。常識に洗脳されていない幼な子と違い、頭が堅かった。今や小学生を終えようとしている本人は、今ではそんな事を自分が言ったことなど覚えていないどころか、生き物ではない「道」が生きているなどといった感性は消えてしまっているようだ。もうモノは生きていないらしい。

しかし、今の私にとって「道」は生きているし、他の全てのモノも生きている。堅い言い方をすれば、有機物が生きているのは勿論、その有機物の組成要素でもある物質を含めたあらゆる無機物も生きている。「生きる」という言葉の定義にもよるが、意識があるという意味においてしっかり生きている。私に投げつけられ、音が立つほどぶつけられ、言葉どころか気にもかけられなかったかつての私のモノたちは、さぞかし悲しくもあり、腹立たしくもあっただろう。今となっては本当に反省するばかりである。

 

演奏家と楽器との関係、職人と道具との関係、持つことや使うことを喜ぶ人とモノとの関係、そこには間違いなく愛がある。人がモノに感謝と慈しみの波動を伝えている。モノもまた誇りと喜びの波動で応えている。

 

人が愛を注げない対象物は、やがて消え行く運命にある。その人が愛を注ぎ続けることができる対象物しか存続させれないのだ。この対象物はモノだけではない。人を含めた生き物も同様だ。その人の周りがたくさんの美しい人やモノに溢れているなら、その人はそれだけ多くの愛を周りに放ち続ける器とエネルギーを持っているということだ。逆に自分が大した仲間やモノを持ち合わせていないのなら、それは慎ましいからではなく、少なくとも今はそれだけの愛を放つエネルギーしか持っていないからかもしれない。

 

私は、今では小学生を終えようとしている息子に、「モノも生きている」とたびたび言いきかせている。