自分の子供が大好きで愛おしいならば

私は、自分の子供がとてもとても大好きだ。何を当たり前のことを、と言われるかもしれないが、理屈ではなく単純に大好きだ。自分がこの世に生まれてきて今まで持った感情の中で、自分の子供を愛おしく感じる以上の幸福感を味わったことがない。

 

もちろん、子供は親の所有物ではないし、それぞれの役割や立場は違えども親も子供も対等な人間同士だと思っている。しかしながら世間では、あたかも子供が親の所有物であるかのような考え方をしたり、親が子供の存在に依存した行動を多くとっている親がちょくちょく見受けられるのも事実であろう。

親が、いつまでも子供と一緒に過ごしたい、そう思うのは仕方ないとは思うが、思うのとやってしまうのではわけが違う。しかし、最近は、自分の生きていく楽しみを子供に転嫁し、子供の生活や将来を自分の手の届くところである程度手も出したいと思っている親が少なくなさそうに見える。そういう親の場合、多くは、自分の人生に挫折したり、諦めたりしていて、自分自身の未来においては大した発展の可能性も見い出せず、発展する可能性があるのは、自分の子供の成長と能力や子供自身の世界だけだと思い込んでいるようだ。

 

子供は親のしたことを繰り返す、と言われるが、子供の存在に依存する親たちのすべてが、自分もまた自分の親に依存された、というわけではないだろう。しかしながら、繰り返してしまっている人たちもたくさんいそうではある。そうであっても、そうでなくても、実態としての性質は似ている。自分が空っぽなのだ。無論、本人はそう思ってはいないし、それを指摘されても激怒するだけだろう。自分も親に依存された人たちは、不幸せな親に過干渉され、嫉妬され、喜怒哀楽をぶつけられ、いつしか親が望むことに応えることが自分のなすべきことのすべてとなって、自分自身のために自分で考えて行動する、という当たり前に必要な思考、行動様式を会得できなかった結果、親に応える自分ではない個の存在としての自分が不在となってしまっている。親に依存されなかった人たちの場合でも、目まぐるしくその価値や道徳を変えていった社会の風潮や要請に振り回され国家や経済世界にそそのかされだまされた結果、ぶれない不変の自己が形成できず不満ながらも社会に迎合し続けた結果、社会に対応するだけの自分ではない個の存在としての自分が不在となってしまっている。

 

自分の子供を愛おしく思うのは、基本的にはただの本能だ。この部分はおそらく原始的な人間社会から今に至るまで、ほとんど変化はないだろう。しかしながら、社会が要求する親子関係のあり方や子供の教育方針は、場所と時代によって様々に変わっている。私たちは常に、時代というよりも、その時代の経済世界やそれに影響される国家の都合と思惑によって翻弄され、振り回され、利用され続けてきたのだ。

第二次大戦中には、国民は国に尽くすべきものだと親子ともども教え込まれ、自分の子供を兵隊として強制的に取り上げられ、平和な時代には、働き、購買し、消費するためにコントロールされ、また、いつしか平和でなくなったときには……。

 

親が骨抜きでは、子供は導けない。子供は親の所有物ではないし、ましてや国家の所有物ではない。しかし、子供たちは親の能力や都合以上に、国家の能力や都合によって運命が左右されてしまう。私たち親は、子供たちが国家や経済世界に誘導されるのを黙って見過ごしてはいけない。そのためには、私たち親が、骨抜きではいけない。モノや娯楽で薬漬けのようになって奪われた、考える時間と意志を取り戻さなくてはならない。

 

私たちが、本当に子供を愛しているのならば、子供たちの未来をおかしなものにされないように、まずは自分たちが目を覚まして、子供たちを自分たちの手で導かなければならない。