親の愛、宇宙の愛

人間は、常に絶対肯定してくれる存在を必要とします。人生において遭遇する様々な失敗や苦難を乗り越えて前に進むためのエネルギーとなるからです。その絶対的肯定は、通常、自分の親から注がれる、見返りを求めない愛、無条件の愛であり、親が存命していようがいまいが、充分に受けた絶対的肯定としての愛は、ずっと受け続けられます。

 

しかしながら、その絶対的肯定愛を充分に受けられなかった人たちがたくさんいます。生まれる前や生まれて間もなく、もしくは幼少の頃に親を亡くしてしまった人、自分の親自身が何かの理由で子どもに無条件の愛を充分に注げなかった人。むしろ、今、生きる力に不足している人たちは、親がいなくて直接愛をもらえなかった人ではなく、親が身近にいたのに、その親が絶対的肯定愛を注げなかった人です。健全な親をもつ知人友人と自分との相対的失望も加わり、親からの愛がゼロかわずかだったことが、マイナスの域へと引き下げられることもあります。

 

本来、親の自分の子どもに対する絶対的肯定愛は、本能に根差す自然なものです。しかし、その本能さえも覆す異常は、親本人の選択ではなく、社会的要因によるものです。親もまた、その親からの絶対的肯定愛を受けられなかった場合もあるでしょうが、どこに遡ったとしても、発端には社会的背景による原因があります。いつか誰かが、急に自己の選択と決意により、本能に根差した我が子への絶対的肯定愛を放棄することは有り得ないからです。

 

社会的要因には、複雑で様々なことが考えられますが、それが戦争であれ、貧困であれ、過当競争であれ、犯罪であれ、国家的施策であれ、国際的圧力であれ、いずれにしても、個人としての回避や対抗は困難なものです。そうなると、絶対的肯定愛のリレーを断ち切った自分の親もしくは祖父母かそれ以前の祖先の誰かを責めても解決の意味は持ち得ません。

 

人間の社会生活の中で、最も身近で長く観察でき、影響をも被る対象となる他人は配偶者です。私自身の環境の場合、私は自分の親からの充分な絶対的肯定愛を受けた感覚があり、私の配偶者は逆に自分の親から受けた絶対的肯定愛にかなりの不足感を抱き続けています。私が、子ども時代はもちろん、特に親元を離れた若い頃、自分が失敗し、挫折し、失望したときに、助けとなり、乗り越えて前に進む絶大な力となったのは、親からの絶対的肯定愛への確信でした。一方、私の配偶者は、私と出会い、生活を共にするようになった若い頃から、自分たちの子どもを授かり、育っていく間、そしてそろそろ自分の孫ができてもおかしくない今となってもなお、一人ぼっちの感覚のまま、充分な生きる力に不足しています。いまだに、足り得る親からの絶対的肯定愛への確信がないまま、自分の子どもへの絶対的肯定愛の注ぎ方の本能的要領を得ないままです。

 

血縁的に他人である私が注ぐ、そこそこの絶対的肯定愛を受けるアンテナの感度は乏しく、私からの絶対的肯定愛を受けながら本能的にも無条件に親へ放つ子どもたちからの愛を受け続けてもなお、絶対的肯定愛を信じ、そこに安堵を見出し、勇気の源とすることができないでいるのです。

 

子どもは、成長するにしたがい、親との関係より、自分自身の世界や自分自身の子どもたちへの愛を重視するのが当然であり、寂しさは伴うものの、それ以上に、子どもが自分の人生や世界を充実させ発展させることに、親も幸福感を得るものです。しかしながら、自身の親から受けた絶対的肯定愛が乏しい子どもは、成長してもずっと、親との関係や親自身の境遇を気にかけ、自分自身や自分の配偶者や子どもたちとの世界を無意識に軽視してしまいます。しかも、その軽視は、自分の配偶者や子どもたちと一緒に過ごす時間や関わりの軽視であるよりも、自分の配偶者や子どもたちの人格の軽視になりがちです。子どもの趣向や人生の進路を知らず知らずにコントロールし、子どもの生活や意志を支配することで、自分とは個別の独立した人格を軽視して無意識に束縛するのです。時間やお金や関わりをたくさん使っている親には、子どもを軽視している意識はおろか、子どもに尽くしているかの錯覚があり、それに慣れた子どもの方は、親の価値基準に頼り、自分自身の選択や意志決定能力が育ちにくくなってしまいます。そして、独特の趣向や価値感があり、自分で選択決定するという自分自身の存在が確立できずに、自分の存在や価値を確かめるために他者の反応を要してしまうという、他者への依存を不可欠として生きていくことになるのです。そして他者への依存を続ける限りは、いつまでも独特な個としての自分自身を確立し、認識することはできません。

 

今の私には、成人した子どもとまだ幼少の子どもがいます。私が若くして親になり育てた子どもたちのときには、感じたり気づく余裕がなかったことも、学びと経験に基づいて得た経済的精神的余裕が多少はある今育てている幼少の子どものことはより観察でき、そこから色んな気づきを得ます。当然ながら、親からの保護と養育を要する生後から幼少の時期の子どもは、一定以上の境遇にさえあれば、親の状態や状況がどんなであれ、無条件に親を信じ、愛し、基本的に幸福感を持って生きています。そして何よりも、親からの愛を確認し続け、その確信に他の何よりも幸福を感じていることがわかります。その連続により、親からの絶対的肯定愛を受ける感度を確立し、成長した後には、目の前にいない親からの絶対的肯定愛を受け続けるアンテナを持ち続けます。そして、親個人の特段の意識のない、その絶対的肯定愛は、自身の親という最も身近な血縁者から発せられる限定的なエネルギーではなく、宇宙のエネルギーの一部として無意識に感受できるようになるのです。

 

親から受けた絶対的肯定愛が乏しい人は、孤独を感じていることが多いです。同じ、親と死別した人でも、絶対的肯定愛を受けた人は、亡くした親の存在に執着せず、親の物質的存在を失くした後でさえも、親からの絶対的肯定愛をチャンネルとする宇宙の愛を受け続けます。一方、親から受けた絶対的肯定愛が乏しい人は、親を亡くすと、ただでさえ乏しかったその親からの絶対的肯定愛が永遠に遮断されたように感じ、失くした親への未練が強く、ますます宇宙の愛というエネルギーの感受から遠ざかります。

 

親からの絶対的肯定愛に乏しく、錯覚でしかない自己の孤独感に苛まれ、他者からの評価に依存した人は、自身から絶対的肯定愛を放つことも、絶対的肯定愛の根源である宇宙の愛というエネルギーの存在に気づくことも容易ではないかもしれません。自然界に生きる動物も、植物と同様に、派生した宇宙のエネルギーの循環の一部として、生きる意味を問うこともなく、命という時間とともに変化するエネルギーの流れを経験し、次につなげる、という、宇宙のエネルギーの流れに乗り、宇宙の愛に包まれているように、人も、絶対的肯定愛の存在を確信し、絶対的な宇宙の愛に包まれた、宇宙の壮大なエネルギーの一部としての孤独ではない個別の部分的な存在としての自己であることの意識を、より多くの人が共有することによって、境遇により絶対的肯定愛に不信な人たちに少しでも本質的な愛を感受させることの助けになるのだと、私は思っています。