「期待」の罪

私は他人とはほとんど全く口論することはないが、家族とはしばしば口論をする。これは、他人に対して期待をしていない一方、家族には勝手に期待をしているからだと思う。

  

期待というのは、実に利己的な心の状態で、相手の都合や思惑に関係なく、一方的に相手の言動が自分に利益や楽しみをもたらすはずであろうことを待っていることである。家族を形作る前であれば、まだ他人である恋人のような恋愛関係にある相手にも、様々な期待を絶えず抱きながら過ごすことだろう。

  

もちろん、この期待というエゴ的要求の発想は個々人から排除すべきであり、お互いに期待をしない人間関係を築くべきである、という命題は各方面の説教者から掲げられてはいるが、一般的な人で実際に他者に対する期待を皆無として生活している人はほとんど見当たらないのではないかと思う。人によっては、期待を抹殺すべく常々意識を張っている場合もあるだろうが、逆に期待の罪を意識することなく、期待が人間にとって自然で害悪のないごく日常的な意識であるかのごとく捉えている人も少なくないだろう。

  

ただ、期待されるのが好きな人たちもそこそこいる。自分の才能と努力の結果を自分に期待し「期待に胸が膨らむ」状態にある人や、周りの人たちから期待されること、つまり、望ましい結果を得たときに誉めそやしてくれる前提をつくることが得意な人たちだ。彼らは、一種の「期待中毒」であり、期待される自分がアイデンティティとなり、ひっくり返せば、期待されないと自分が喪失してしまうのかもしれない。こういう人たちは、いざ、自分が自分自身や他人の期待を裏切る結果を出してしまうと、失敗者としての罪悪感を持ち、ひどい場合は廃人となり、良くても、次の期待に応える機会に到達するまでは罪人として苦い思いをしながら生きていく。しかし、この手の人たちは、比較的大きい期待をされている人たちであって、往々にして、期待されることをモチベーションにして、それなりのこと、時には偉業を成し遂げたりもする。

  

問題は、こういった大きな期待ではなく、日々無造作に発射しまくられている小さな期待である。自分が作った料理をおいしく感じてくれる期待、あげたプレゼントを気に入ってくれる期待、新しい服を格好いいと思ってくれる期待、自分の提案に同意してくれる期待。そんな一方的で勝手な期待に添えなかった相手に対する不機嫌で批判的な態度は、相手からすれば横暴以外の何物でもない。自分は普通に生活のひと時を過ごしているだけなのに、相手が勝手に何かをおっ始め、勝手に賛美を期待し、勝手に裏切られ、勝手に傷ついて、勝手に攻撃する始末なのである。

 
 つまり、期待は利己的な欲求であるがゆえに、相手に対する真の理解や愛情に欠け、当然の結果として、付随する行動は相手に伝わるものとはなりにくい。逆に、期待という利己心を退け、単純に相手を喜ばしたい、相手の実になることをしたい、という動機と心情で行ったことであれば、結果的に相手を利することになり、ひいては自分もまた喜びを得れるであろう。
  
結局、ポール・マッカートニー師匠が歌った、「あなたが得る愛は、あながた与えた愛と同等である」という大原則を忘れてはならないのである。