顔は心の鏡?

人の顔がその人の中身をよく表しているというのは、古くから広く言われてきたことだと思うが、その考えに頼り過ぎると、その人となりを見誤ってしまうことがある。確かに犯罪者のような悪人と呼ばれる人たちの顔は怖かったり陰鬱だったりすることが多いし、逆に、真の慈善家たちの顔は明るく見る者に安心感を与えるような波長が放たれていて、顔だちの端正さには関係なく美しい印象を与えることが多いように思う。

特に、歳を重ねれば重ねるほど、その人が度々作ってきた表情に特有の皺も深く刻み込まれ、その人の性格や人生さえも表れてしまっていることも少なくない。単純に捉えても、自信のある人は堂々とした表情をし、自信のない人は不安げな表情をし、他人を威圧したがる人は威圧的だったり恫喝的な表情をし、他人と争うつもりが毛頭ない人は自分は無害で平和的ですと言わんばかりの控え目な穏やかさを表しているものである。

 

自分自身の顔が周りにどういう印象を与えがちなのかを客観的に見ることは不可能なので、自分のことは棚に上げて言うと、私も若い頃からずっと「人の顔にはその人の中身が表れている」という考えの支持派であった。ところが、たまに見込みが外れてしまうことがある。ちょくちょく身近に見かけていた嫌な顔をした他人で、頭は悪そうなのに高慢そうだと、勝手に私から内心決めつけられている人がいた。ところが、ひょんなことからその人と長い時間話をすることになり、実際に接してみると、頭はスマートで客観的な視点もあり、控え目で物事を決めつけない人だった。会話している相手の顔は穏やかでもあった。私は「やられた」と思った。私は「間違っていた」と反省した。

 

顔でその人を判断するということが、時には罠なのだ。しかも自分でしかけた。人は相手を自分の見たい顔にして見るということを忘れてはいけないと思った。私の脳に映した相手の顔の画像は、レンズからの画像を修正やエフェクトをかけずにありのまま写すカメラとは違い、私の先入観や思い込みによって歪められているのだ。

多くの動物もそうだが、人も通常は二つの目で対象物を見る。その場合、片目ずつから見た画像は角度も違い重なる部分もある。これは片目を手でふさいで同じ対象物を左右交互に見てみるとよくわかる。両目で同時に見た場合、角度の違いによって対象物までの距離感を得るのと同時に真ん中が重なり合う角度の違う二つの画像を脳の中で組み合わせて一つの画像に処理している。この処理をせざるを得ないことで生じる不可欠な曖昧さや柔軟性の部分に付け入って、見る人の感情や思い込みが画像にエフェクトをかける余地を与えている。

だからこそ多くの人が、自分自身や家族、自分の味方をしてくれる人の顔を好意的に捉え、また逆に素性の分からない人や好きとは思わない人の顔を敵対的に捉えがちなのだろう。

この脳の先入観による画像エフェクト処理をなるべく働かせず、できる限り中立的で写実的な像を見ることができたなら、実は日常的に行っている主観的なブラスマイナスのデフォルメを避け、より良い人間関係の機会を損なうことを減らすことができるだろう。

留意すべきことは、人が何かを「見る」という行為は、ありのままを脳に写す作業ではなく、自分が対象物にどんな印象をもっているかを認識する作業である、ということだ。だから、あなたも、かつてはどこをどう見ても愛おしく見えた恋愛相手の顔が、やがては造りに粗のある意地悪や間抜けな顔に見えてしまう、という経験を持っているのだ。