一切判断しない

自分の世界に起こったあらゆる事象について判断を下さないことを心がけている。

 

例えば、自分以外の人の言動に対し、正しいとか間違っているとか、好ましいとか好ましくないとか、判断のニュアンスは多様だが、そこで常に行っているのは、相手自身ではなく自分という観察者の立場から勝手に、自分の経験や価値観だけでなく、その時の気分までも材料にして判断を下す、という誠に一方的な見解である。多くの自称知的な人たちは、「出来る限り相手の立場に立って客観的に判断しています」と言うだろうが、相手の生い立ちや今までの経験やその時の状況、さらに心情を直接感じることは不可能にもかかわらず、相手の立場に立ったつもりになったり、ましてや判断を下すなどという態度自体が高慢なのである。

 

やるとすれば、「判断」という断定ではなく、「推測」だろう。推測という態度には、あくまでも自分の経験や知識に照らした上で、間違っているかもしれないけれども、そうではないかと仮定してみる、という謙虚さと、修正の余地を含んでいる。しかし、推測さえも、限りない想像力の織りなした一つのパターンでしかないにもかかわらず、詳細化し過ぎると、イメージが鮮明になり、真実と混同してしまいやすくなるという罠がある。

 

他人ごとではなく、自分自身にふりかかった事象に対する反応においても、判断は避けなくてはならない。

自分が生きている中で起こった予期せぬ出来事や、特に好ましくない事象について、「なぜこういう事が起こったのだろう?」、「この出来事は自分にとってどういう意味があるのだろう?」などと定義づけを行おうとすることがあるだろう。しかしそこでも、自分がこういう原因をつくったからとか、自分の能力、努力、実態などと結びつける判断を下すのは避けた方がいいと思う。そういう断定の積み重ねが、自分自身の能力に限界を築き、精神的にこわばらせてしまうかもしれない。もちろん自分にとって好ましい事象が起こったときでも、過度に自分の運や才能のせいにばかりしていると、奢った人格の形成への助けになるかもしれない。

 

人が何かを決断するとき、それは判断をしているのではなく、選択をしているのだと思う。それを判断をしていると思い込むと、その度に正解を得ている気になり、いつしか自分は常に正しいという錯覚に陥り、自分とは違う見解に対して「間違っている」というとんでもなくエゴイスティックで狭い見識を持って生きていくことになる。

 

判断する癖をやめると、自由が拡大する。人は、ことあるごとに判断しなくてはならない、という勘違いを持っていることが多いかもしれない。しかし、自分以外の人の言動についての正誤の判断は必要ないし、自分自身の状況に対する良し悪しの判断も必要ない。判断をしてしまうと、相手や自分に対する評価が伴ってしまう。誰々のそういう言動は間違っており、間違うということは知性が低い、といった具合の一連の思考を巡らすはずだ。

 

私もあなたも常に自分や他人に対して裁判官の審判のごとく判断する立場も必要もなく、推測のような仮定さえも必要なく、ただありのままを受け取れば、より自由になるだろう。所詮、あなたが見ているあなた自身やあなた以外の状況は、あなたの意識の反映に他ならないのである。