「奴隷」の実在

前回の記事の中で「奴隷」、「奴隷制度」という言葉を、マトリックス(映画)に示唆されたような現実世界に囚われた人々のように無意識に搾取され続けている大多数の庶民と呼ばれる人々や、そういう搾取システムのことを指す意味として使ったところ、記事を読んでくれたある方から、「本当の意味での『奴隷』問題を意識している人たちにとってはある意味大袈裟な誤用とも受け取られかねないのではないか?」との指摘をいただいた。

 

確かにそうかもしれないし、「奴隷」という言葉の使い方が安易過ぎたかもしれないとも思った。我々のようにそこそこ広い囲いの中に放牧された羊のように少なくともまやかしの自由は与えられた存在とは全く違い、完全に自由を奪われ脅されながら搾取者の利益のための活動を日々強要されているいわゆる普遍的な意味における「奴隷」の実在やその残忍な実情の概念を薄めてしまいかねない効果の可能性は認識すべきだろう。

 

しかしながら、現実世界に生きる大多数の一般庶民が体のいい「奴隷」のような存在である、という私の個人的見解は今のところ訂正のできない認識であり、そういう人々を指す目的で「奴隷」という言葉を使用することを今後止めるという結論には至っていない。同時に、扇動的や過激な印象を持たせるために使うことのないように慎重であるべきとは考えている。

 

私自身、普遍的な意味における「奴隷」問題については、かねてから多少ながらも現状を知り心痛している大きな懸案事項の一つである。そもそも現代において世界中にかなり多くの奴隷が存在するということ自体、知れば単純に驚いてまう。人間というものの実際の行為に見られる極めて残酷な性質の表れであり、私自身や多くの人々にとっては理解と許容をはるかに超えた状況である。ただ、あまりにも一般的な価値観を逸脱した事実であるがゆえに、我々にとっては非日常過ぎてついつい意識から消えがちである。その結果、今この瞬間にも世界中で多くの人が奴隷として苦しみながら生きていることなど、露知らずのような日常を過ごしてしまっていることは否めないだろう。

児童や心身的弱者を含む労働奴隷あるいは性的奴隷、個人的犯罪から国家間戦闘までのあらゆる規模での殺人その他人間が実際に発揮する諸々の非情さを、同じ人間にもかかわらず未だに理解できないでいるのは、ただただうぶなのだろうか。

 

いずれの問題の場合でも、個人もしくは特定の集団が自らの利益を追及する目的で他人もしくは他集団の自由と権利そして時には命さえも奪うという行為である。こういうことがごく小さい規模においては実は結構身近にも行われていることを考えると、当然私自身をも含む人間の本能に根付いた現象なのかもしれない、という仮説は立て得るのではないだろうか。

 

「非常識」のススメ

一昨日、我が家のリビングに掃除機をかけていたとき、ワイドナショーという番組が誰が観たいわけでもなく家のテレビに映っていた。掃除機の音にかき消されながらしばらくは気にかけていなかったが、そのうち掃除機のスイッチを切って見入っていた。

やがて話題は松岡修造さんのことになり、彼の日めくりカレンダーが凄く人気で増刷しても追いつかず売り切れ状態が続いているということを伝えていた。日めくりで投げかけられる彼の超個性的な言葉が刺激的で受けているらしい。

番組に出演していた長嶋一茂さんが、松岡さんと一緒に仕事をしたときに目にしたエビソードを語られていたが、カメラが回っていようがいまいが、素でもあのキャラらしく、細やかさと豪快さを兼ね備え持ち活力の溢れた人だそうだ。


私にはそんな彼が非常識に感じられた。非常識はいいことだ。大多数の凡人とは考え方や行動の仕方が違うということだ。


それに比べ私は常識的だ。残念ながら。親に、学校に、世間に、時代によって常識的人間になるよう洗脳され教育されて育った。非常識はまるで悪のように思い込まされてきだ。大人になってからは、しばしば、相手を批判し罵倒する目的で、常識が善かのごとき発言を数えきれないほどしてきた。


私自身はどちらかと言えば、右へならえをするのが嫌いな、多数派とは違う個性を出すのが好きだった。流行のカルチャーやファッションのど真ん中を採ることは避け、端っこだったり掻い摘みをすることで、あたかも流行なんか気にしていないふりをしていたが、所詮はみ出してしまうことはなかった。


自分以外の人、他人は勿論親も含めた人たちに迷惑をかけさえしなければ、誰にも文句を言われる筋合いがなく、自由を得れるのだと定義して、実践してきた。しかしそれは、人に嫌われたり攻撃されたりすることを避けたお利口チャンのやり方であり、狭くストレスのかかった自由?つまり見栄えのいい不自由に過ぎなかった。


こうした平々凡々ではない生き方をした少数派でさえもが、平々凡々な生き方に甘んじてこれた多数派と実は大差なく、閉じ込められ強いられた世界に生かされているのであり、「社会」と呼ばれる奴隷制度に順応し、そこで生産し続けることを余儀なくされ、疑問を持つ余裕さえ与えられない制度の歯車として、良質であれ悪質であれ、擦り減らされていることに変わりはない。


常識に従い、常識的に生きるということは、社会の秩序を乱さないということであり、その社会は我々庶民がシェアしてるわけではなく、社会をコントロールし利用するごく一部の特権階級のために、我々庶民は奴隷として尽くしているのだ。


であればこそ、非常識的に生きるということは、奴隷社会から自由になることまでは困難だとしても、多少の自由を垣間見るくらいのことはもたらしてくれるのかもしれない。


私はここ数年、「全ての常識は疑え」というフレーズを自分に言い聞かせており、たまに我が子にも押し付けたりしている。

「忙しい」とは言いたくない

こんな歳の暮れの忙しい時期に、新しいブログをスタートさせた。

なぜ今日なのかというと、「思いたったが吉日」だからである。

 

そもそも「忙しい」という言葉は好きではない。というかなるべく発声したくない。

人から「忙しい」と言われて肯定的な印象を受けることは滅多にないし、むしろ物理的にタイトな時間で物事を処理しなければならない状況であればこそ、出来る限り落ち着いていることを心がけるべきだと思うからだ

 

私が尊敬するある師匠曰く、「忙しいと言う人は怠け者」だそうだ。

 

かくいう私自身、先週のある朝のマイカー通勤途上、ほんの数分を急いだためにいつもと違う道を通り、さらにいくつかの偶然が重なって、大好きなマイカーにそこそこのダメージを負わせる事故を起こしてしまった。幸い誰もけがはしなかったものの、その後の自分や数人の自分以外の人にマイナスな感情を与える結果になってしまった。

 

私が肝に銘じておくべきとしている "Haste makes waste" というフレーズの意味する通りのことを自ら証明してしまったのだ。

 

 

始めたブログの一発目の記事がこれですか?と言われそうだが、このブログは客観的な情報の提供ではなく、あくまでも私的な所感に終始してみようと思っている。