「非常識」のススメ

一昨日、我が家のリビングに掃除機をかけていたとき、ワイドナショーという番組が誰が観たいわけでもなく家のテレビに映っていた。掃除機の音にかき消されながらしばらくは気にかけていなかったが、そのうち掃除機のスイッチを切って見入っていた。

やがて話題は松岡修造さんのことになり、彼の日めくりカレンダーが凄く人気で増刷しても追いつかず売り切れ状態が続いているということを伝えていた。日めくりで投げかけられる彼の超個性的な言葉が刺激的で受けているらしい。

番組に出演していた長嶋一茂さんが、松岡さんと一緒に仕事をしたときに目にしたエビソードを語られていたが、カメラが回っていようがいまいが、素でもあのキャラらしく、細やかさと豪快さを兼ね備え持ち活力の溢れた人だそうだ。


私にはそんな彼が非常識に感じられた。非常識はいいことだ。大多数の凡人とは考え方や行動の仕方が違うということだ。


それに比べ私は常識的だ。残念ながら。親に、学校に、世間に、時代によって常識的人間になるよう洗脳され教育されて育った。非常識はまるで悪のように思い込まされてきだ。大人になってからは、しばしば、相手を批判し罵倒する目的で、常識が善かのごとき発言を数えきれないほどしてきた。


私自身はどちらかと言えば、右へならえをするのが嫌いな、多数派とは違う個性を出すのが好きだった。流行のカルチャーやファッションのど真ん中を採ることは避け、端っこだったり掻い摘みをすることで、あたかも流行なんか気にしていないふりをしていたが、所詮はみ出してしまうことはなかった。


自分以外の人、他人は勿論親も含めた人たちに迷惑をかけさえしなければ、誰にも文句を言われる筋合いがなく、自由を得れるのだと定義して、実践してきた。しかしそれは、人に嫌われたり攻撃されたりすることを避けたお利口チャンのやり方であり、狭くストレスのかかった自由?つまり見栄えのいい不自由に過ぎなかった。


こうした平々凡々ではない生き方をした少数派でさえもが、平々凡々な生き方に甘んじてこれた多数派と実は大差なく、閉じ込められ強いられた世界に生かされているのであり、「社会」と呼ばれる奴隷制度に順応し、そこで生産し続けることを余儀なくされ、疑問を持つ余裕さえ与えられない制度の歯車として、良質であれ悪質であれ、擦り減らされていることに変わりはない。


常識に従い、常識的に生きるということは、社会の秩序を乱さないということであり、その社会は我々庶民がシェアしてるわけではなく、社会をコントロールし利用するごく一部の特権階級のために、我々庶民は奴隷として尽くしているのだ。


であればこそ、非常識的に生きるということは、奴隷社会から自由になることまでは困難だとしても、多少の自由を垣間見るくらいのことはもたらしてくれるのかもしれない。


私はここ数年、「全ての常識は疑え」というフレーズを自分に言い聞かせており、たまに我が子にも押し付けたりしている。