騙されていることを認める勇気はありますか?

あなたたちが知っていると思っていることは真実ですか? それらはテレビから得たものですか? 新聞や雑誌からですか? インターネットからですか? 知人からですか? それらが嘘や勘違いではないと誰が保証しましたか? あなたたちは、それらの情報の真偽を確認しましたか? あなたたちが実際に直接見た出来事ですか?

 

 あなたたちは、性善説に基づいて他の人々や組織と接することが多いでしょう。それはあなたたち自身が基本的に善人であり、まさか嘘や暴力で他人を欺いたり搾取したり支配したりしようなどと望んでいないからです。だからこそ、あなたたちは幼少のときからテレビや新聞に代表されるマスメディアを介して得た情報を疑うことなく真実だと思い込み、大方の権力者たちがうまくやろうがやるまいが方針としては国のため組織のために尽力しているのだと信じてきたのです。

 

 だから、今になってそれらのほとんどが嘘や歪められた情報だったと言われても、信念を覆すにはあまりにも膨大に蓄積されコントロールされた虚偽を頭の中で固められ過ぎていて、受け入れることはかなり困難なことかもしれません。

 

しかしながら、同時にあなたたちはずっと、大小様々な矛盾を見聞きしながらも疑問を棚に上げて受け入れ続けてきたことも事実でしょう。大きな嘘は少なからずの矛盾を露呈しますが、まるで善人がまれに犯す小さな失敗に目をつぶってあげることと同じように、隠された巨大な偽善が生んだ数々の矛盾を見過ごしてきたのです。

 

自分が真実をほとんど知らないということを受け入れることは大変な勇気のいることであり、屈辱的なことですらあるかもしれません。しかし、今まで通りにこれからもずっと誰かにとって都合のいい虚偽を都合のいい方法で植え付けられ続けることの愚かさを選ぶことの方がより屈辱的なことではないでしょうか。

 

テレビや新聞や雑誌からの情報が全て嘘というわけではありませんし、インターネットからの情報が全て真実というわけでもありません。情報には、誰かの得のために創作されたものと、真実を伝えたいという思いから発せられたものとが混在しています。それらの中から真実そのものか真実に近い、または真実につながる情報を見分け、聞き分ける必要があるのです。

 

あなたたちが住む国では、あなたたちが働く企業が巨大な利益を上げながらも、あなたたちには還元されず、あなたたちの周りには食べることにすら困った人たちがいるのです。単純にこれらの事実からしても、あなたたちの住む国が善意に基づいて運営されている姿ではないことが明らかです。

 

あなたたちが住む国の国家はあなたたち一般国民のために機能しているのではなく、昔からの既得権益者たちを多く含む大資産家や大企業家たちのために、そしてこの国を実質的に占領し続けいている他の特定の国家のために機能しているのです。あなたたちがあなたたちのためにあると信じている政府は、あなたたちの生活や環境を向上させることを目的としているわけではなく、あなたたちになるべく多く働かせて経済を拡大させ、その報いとして得たわずかな金銭のなかからなるべく多くを消費させて資本家の利益に還元し、または税金という名目で国家に回収させて資本家や占領国政府に還流させることを目的として機能しているのです。

 

そして国内外の巨大企業はあなたたちの健康や命を顧みずにむしろ犠牲を強いてあなたたちにモノを売りつけることに全身全霊を注いでいます。モノを売り続けることで利益を上げ存続し続ける企業は、あなたたちがモノを買い続けるために、彼らが提供するモノがあなたたちにとって必要不可欠だと信じこませるために巧みに作り上げた宣伝というマインドコントロールをマスメディア経由で発するのみならず、社会そのものの形態を広告としているのです。

 

あなたたちを食い物にして莫大な利益を上げる巨大企業は、献金という名目で多額のカネを政治家たちに与え、カネで飼いならされた政治家たちが運営する政府を好都合にコントロールしているのです。

 

それでもまだあなたたちは、クニがあなたたちのためにあると信じ続け、あなたたちに情けがあると信じるカイシャで労働して得た釣り合いのとれないなけなしのカネを払ってキギョウの利益のために有害で不要なモノを買い続け、キギョウとセンリョウコクが支配するクニにゼイキンを払い続けたいですか? キギョウとクニとセンリョウコクから搾取され続けますか?

民主主義という偽善

一般の人たちが民主主義と思わされているものは、決して民主的ではない。

議会制民主主義は本当の意味では民主主義ではない、あるいは、民主主義は民主的ではない、とも言える。

民主主義は資本主義と表裏一体であり、資本家の利益ためには機能するが、民衆の利益のためには機能していない。国民の代表と思われている議員たちの中には昔からの特権階級が多くいて、資本家でもある特権階級の仲間や企業家たちの経済的支援を受け、利権を付与し維持または拡大することで報いてやり、その原資には民衆の税金が充てられている。民衆からは連続的に増税し、公共事業や公的保険や補助金などの名目、そしてときには復興事業と称して企業に還元し、消費税の裏からくりや法人税減税その他の特別措置減税により大企業の税負担を優遇的に減らしている。つまり、行われているのは資本家や企業家のための政治であり、民衆からの搾取である。民衆は企業に勤め、企業と取り引きすることによって搾取され、消費という名目で搾取された上に、国家からも搾取されているのだ。そしてさらに悩ましいことに、その国家は強力な国家に隷属しており、自国民からの搾取を献上さえしているのだ。

あなたの国家が隷属している強力な国家は、民主主義を世界に広めるという大義名分を振りかざして、軍事という暴力によって他国の資源を奪い続け、民主的ではない独裁軍事政権を傀儡に据えることを繰り返している。自国の資本家の利潤追求のために、他国の多くの民衆を軍事殺害し、奴隷化し、搾取する、というお決まりのスタイルを貫いている。

これが民主主義の顔だと胸を張る強力国家の実態であり、そこに隷属する子分国家の民主主義など、それ以上の見せかけでまやかしの国民搾取システム以外の何物でもない。

あなたはまだ、あなたの親分国家が自由と正義を追求する民主国家であり、あなたの住む子分国家は尊敬されるに値する知性と礼節を持った独立国家であると思い続けていられるほどうぶだろうか。

嘘という威圧

ときどき、どうにもこうにも我慢ならないときがある。

 

なぜ、ああもいけしゃあしゃあと嘘をつけるのだろう? ひょっとすると、まさか自分が嘘をついているなどとは露ほども思っていないのかもしれない。そうでなければ、そんなに明白な嘘をついて誠しやかな顔をしていられるはずがない。まるで、人の視覚情報がその人の思いの影響で容易に歪められるのと同様に、数時間前の自分の言動に対する記憶すら、その人の都合のいいように修正され、本人により確信されてしまうのだろうか? 微妙なニュアンスなどに対する本人と受け手との間に生じる印象や記憶のギャップはありふれているだろうが、明確に放った言葉が、受けた相手の記憶と全く違うのは犯罪行為に等しい。

 

こういったある種の暴力とも言える、相手の記憶に対する弾圧は、往々にして強者と弱者か利己的な者とそうでもない者との間において行われる。立場が上の者が下の者に対して発動した威圧や侮辱は、そこに第三者となる目撃者が存在しない限り、立場が下の者が勇気を振り絞って告発しても、ただ「やっていない。言っていない。大袈裟に捉えている。誇大妄想だ」といったけちらかしによって、証拠なきこととして一掃されてしまうのだ。

 

こういうことは、日常的に、あなたの家族の誰かとその上司、教師、先輩、年輩、顧客そして何かしらの団体の上役らとの間で行われている。また、被害者である正直な弱者は、そんな苦しみを誰にももらさず、自分一人で耐え忍ぶよう努力し、またそうすることが美徳なのだと思い込まされている。そしてそういった弱者の悲しい忍耐に、嘘つきの強者は日々つけ込んでいる。

 

人間の中には実に汚い性格を持った者が実に多くいる。しかも、そういった連中のうちのかなり多数が自覚していない。自覚した厄介者もたくさんいるが、自覚していない偽善者ほど性質の悪い者はない。人間のほとんどは幾分において偽善的な振る舞いをしがちではあるとはいえ、ある程度の人たちは自覚しやすく、いつしか偽善に気づき、恥ずかしさを覚え、改善を試みる。

 

 

それが社会だ。大人ってものはそんなもんだ。そういった不条理をくぐり抜けることで、社会に適応して行くんだ。と言う奴もいそうだが、そんな奴は社会の敗北者だ。負け犬の論理を遠吠えしているだけだ。そんな社会は汚れた場所だ。そんた大人はクズだ。そんな世渡りで世間慣れしているつもりになっている者は残飯をあさって生きている動物と同じだ。

 

 

あなたの大事な人が、どこかの横暴な嘘つきによって、心を傷つけられているかもしれない。度重なる傷に慣らして心の皮を分厚くさせるより、美しい笑顔の源である繊細な心のままで守ってあげよう。そうできるよう、あなたや私が聡明な愛を強化しよう。

善悪はおまじない

多分、この地球上の文明のある所のほとんどで、善悪の存在や定義を、生まれて間もない頃から教え込まれている。しかし、そもそも善悪とは何だろうか?

 

 

性善説性悪説とかいう議論もあるように、人の行いには善や悪の評価が下される。辞書による定義は別にして、善は自分以外の人を害することなく利する行為や状態で、悪は自分以外の人を利することなく害する行為や状態を指すものだと建前的には定義できるだろう。しかし、善や悪の行為主ではなく、受け手からすると、他人を害することがあろうがなかろうが自分を利すれば善であり、他人を利することがあろうがなかろうが自分を害すれば悪、という利己的な定義がまかり通っているのも事実である。

 

実際には、国家などがそういった利己的な定義による善悪を採用していることが多い。自国に利益を与えてくれる他国は善なる国家であり、自国の利益を損なう他国は悪い国家だ。この前提では、国家であれ、個人や集団であれ、自己が勝手に目論む利益獲得の障壁や競争相手となる対象は、警戒すべき悪の行為者候補、つまり容疑者であり、それが実際に獲得した利益が勝手に予定したものよりも少ないもしくは皆無とさせられた原因となった対抗者は、悪の行為者であり実行犯と結論づけてしまう。

 

現実的に今日の世界でも、そういった利己的な善悪判断を大義名分とした逆切れや脅迫や、いじめのような戦闘行為が絶え間なく繰り広げられており、そういった暴力団的な振る舞いは実質的にはたった一つの国家とそれに媚びへつらう多数の取り巻き国家群の支援により行われている。そういった暴力団国家の行いは、世界中の大多数であるうぶな人々の目や耳には善なる行為のように思い込ませるための「民主主義」というまやかしのヴェールが被せられており、真実の中身である悪徳が見えないにようにして正当化するという手法が取られている。そしてもし後になって、その悪なる真実の一部が一般にばれてしまったとしても、うぶな多数派は過ぎてしまったことに激怒はせず、さらに忘れやすいという悪者にとって好都合な特性を備えているため、完全に善から悪へのイメージ転換がなされることはほとんど無い。

 

つまり善や悪は、偏った都合や主観的なイメージでしかなく、普遍的かつ万人にとっての絶対的な善や悪など存在しないのだ。善と悪が二元的であるが故に当然ながら相対的に存在するという意味にも通ずるが、それでも善や悪の各々の領域というのは変幻自在であり、多くの場合、演出されたものですらある。

 

 

母親のわが子を愛する思いや行為は別に善ではなく、本能的に当然のことである。逆に、たまにいる母親のわが子への愛情が不足している状態も悪ではなく、異常なだけである。ただ、こういう自然か不自然かのような状況にも、往々にして社会は善か悪かのレッテルを貼りたがる。

 

生まれてくるときから人を観察し続けたとしよう。もちろん、胎児の頃から善人だの悪人だの言われることはない。生まれて間もなくからしばらくの、ただ泣いて母乳を求めて排泄して眠って、時折色んな表情や声を出してくらいの時期には善行も悪行も働けない。はいはいをし出してから歩き始める頃には、相手をたたいたり、相手がいやがるふりをすると笑って喜んだり、落としたり、避けたり、壊したり、といった相手を困らせることをやるようになるが、これらも悪ではない。そしてやがて自分の物を固持しようとしたり相手の物を取ったりするようになる。これはモノに対する興味の現れと同時に所有感覚の発達である。同じことを幼児以上がやると、「悪いこと」とたしなめられる。大人がやれば犯罪となる。つまり、社会においては、モノは誰かに所有され帰属するものであるというルールに従い、勝手に所有権を奪うことは許されざる犯罪であるという法律に則った判断が下される。つまり、ルール違反は悪であり、相対的にいえばルールに適合すれば善となる。

もう少し成長して、園児や児童と呼ばれる年齢では、差別的言動が顕著化する。差別も本能的感覚だが、こういった差別は悪とされ、差別しないことは善とされている。この差別に対する善悪は、必ずしも法律などのルールに明確化された基準があるわけでないが、一概に社会的には良くないことだと広く認識され受け入れられている。それでも、多くの社会人たちが、他国民や他民族のことを、何人は嫌いだ、などとはっきり口にするが、そういった発言が不適切と捉えられることはあっても、悪いことだと即断されることはない。

 

自然動物たちは、全行為を本能に基づいて生きており、当然そこには善悪はなくただ生存するためだけに営まれている。一方、人間たちは、本能を制御させないと共存できない複雑かつ膨大化した社会に生きている。人間が本能を放置されれば、盗み、姦淫し、傷つけ、時には殺すだろう。こういった社会運営上不都合となる本能的行動が悪と定義され、そこを制御して社会秩序を乱さない人が善人とされる。つまり、善や悪はこの世の始まりから存在するわけではなく、社会が形成されて初めて、都合上概念化されたのである。農耕文明が始まって以来、人間の世界においては、巧みに土地を開墾所有し、そこでの農業生産を増やし、余剰を保存することができた人とそうでない人の間で不平等が生じ、その不平等は何千年後の現代でも形を変容させ複雑化させながらも脈々と続いている。そうした一握りの「持つ者」たちが運営支配する世界が社会であり、大多数の「持たざる者」たちを制御し利用することを維持するために、善悪というおまじないを発明し、私たち「持たざる者」は常におまじないにかけられっぱなしなのだ。しかも一握りの「持つ者」たちは善悪のおまじないによって本能を制御された私たち大多数の「持たざる者」たちの苦労のおかげで、自分たちは制御する必要のない本能を謳歌し、さらに物質欲という人間に特有な新たな欲望をほんのごくわずかずつ「持たざる者」たちに刺激し享受させることで、自分たちの物質欲を莫大に満たしている。

 

社会規範上は、自分がされて好ましいことは善であり、自分がされていやなことは悪であるが、社会運営上は、好都合なことは善であり、不都合なことは悪である。しかもその社会は、一握りの「持つ者」たちの利益のために巧みに改良を重ね構築されている。

 

 

思い

私が若い時に働いていた職場で、ある同僚が一人の上司を凄く嫌っていた。私はその同僚よりも後でその職場に仲間入りしたため、そもそも何故その同僚がその上司を嫌っていたのか詳しくは知らなかったが、さしずめ、評価に値しない部下が自分を評価してくれない上司に腹を立てていたというところだったと思う。

その同僚はある時こんなことを言っていた。「人は強く念じ続ければ、必ず作用する。だから自分は、あの上司が辞めるよう念じている」私はその言葉を聞いた時、何だかワラ人形に釘を打ちつけて相手を呪うのと同じことのような気がして気持ちが悪かった。

そしてしばらく後に、その上司は少しずつ体調を崩していき、しまいには仕事を辞めて職場を去って行った。

確かに彼の念が通じたのだろう。人の思いが現実化するというのは本当だと思う。それも負の方向には比較的成就し易い。


私が学生時代に親元を離れて暮らしていた頃のある日、湯を沸かしたやかんをひっくり返してしまい、足に熱湯がかかり火傷をしてしまったことがあった。薬もなかったが、夜中だったのでどうすることもできず、洗面器に入れた水に足を浸けてしのごうとしていたが、ヒリヒリとした痛みが止むことはなく、朝まで寝れずにいた。

すると早朝に、千キロ以上離れた実家の母親から電話があり、「あんたどうかした?」と尋ねられた。私が「夜中に足を熱湯で火傷した」と言うと、「やっぱり。あんたが痛い痛いって苦しんでいる夢を見たのよ」と母が言った。私が「大した火傷じゃないけれど、もう何時間も痛みが取れない」と嘆くと、母親は「なんでもいいから、サラダ油でもいいから油を塗りなさい」と教えてくれた。

それで私は(今では覚えていないけれど)なんかしらの油を火傷した足に塗った。するとびっくりするくらいに痛みは和らぎ、それから数時間の眠りにつくことができた。

確かにテレパシーのようなものが通じたに違いなかった。人の強い思いは空間上の距離に関係なく、瞬時に相手に伝わるのだ。


私たち人間は、いつしか忘れてしまったのか、それとも開発途上なのかはわからないが、確かに「思い」の伝達や作用という摩訶不思議なようで実はごく当然な現象手段を持っている。

「変わる」ということ

変化は安定である。

 
私は若い頃、自分は変わってはいけない。変わる必要はない、と思っていた。子供の頃から色んなことを考え、少しずつ価値観を形作り、自分なりの哲学や宇宙観を築き上げ、青年と呼ばれる頃には、それなりに何にでも対処できる理論武装を身につけて、個性的に人生を楽しむ方法を修得していたつもりになっていた。懸命に真面目に作り上げた自分だったから、他者の意見で容易く自分の考えを改めたり、ちょっとした失敗くらいで自分の処世術を修正する気など露ほどもなかった。井の中ではそれなりに支持されていた自分のキャラクターを裏付けている価値観を変えることは、格好悪いことだとすら思っていた。
 
大人になるとやがて、それまでの自分では通用しない、予想だにしなかった受け入れ難い出来事にいくつも直面することになった。そのときの自分のキャパシティーでは対処しきれないものだった。対処しきれない自分が悪いのではなく、対処しきれない問題を起こす相手が悪いのだと決めつけるしかなかった。自分の小さな器、狭い視野、柔軟性のない発想が自分を悲劇に陥れ、相手に罪悪を押し付けていることを受け入れきれなかった。
 
結局、それらの困難から脱け出すには、自分の凝り固まった価値観を変え、自分を修正するしかなかった。器を大きくし、視野を広げ、 発想を柔軟にするには、自分が信じてきたものを覆すしかなかった。
 
一旦変わる術を身に付けると、変わることが楽しく思え、変わることは方向転換ではなく進化なのだと気付いた。
 
そのときの状況がどんなに安楽で、どんなに完成されたように思えても、そこから変わらないことは停滞であり没落である。変わるということは、時間という次元概念を利用して変遷することである。私たちは時間のある次元に住んでいる。であれば、変化することを体験しにきているのである。
 
かつての私のように、変わることは、移り気であり優柔不断だと勘違いしている人たちがたくさんいる。言ったこと、誓ったこと、心に決めたことを曲げてはいけない、と。勿論、軽々しい明言と撤回の繰り返しは、ただの思慮欠如のなせる技だが、不変を美徳とすることによる硬直は、気付かぬうちに自分の足を退化の沼にはめている。
 
変わることこそが進展であり、好転でれ悪転でれ、変化そのものの結果であるが故に、好転を望むならば、必ず変化を経なければならない。
 
まわりを見渡してみれば、実に万物が着実な変化の途上にあり、植物は成長し、枯れ行こうとし、動物たちは絶え間ない新陳代謝を続け、無機質に見える物たちも、新たに築かれ、朽ちていき、永遠の化学変化を示し、ゆっくりと穏やかに変遷している。こういった自然の速度による変化のタペストリーとしての風景こそが、平和という抽象概念を表象したものである。
 
変化は安定である。
 
 

恐れるということ

恐れる、ということは、否定的な現実を選択しているということです。

人はうまくいっているときでさえも、ついつい不安を抱き、今の好調は続かないかもしれない、という軽い疑念を持ち始め、だんだん不安が大きくなり、やがて恐れとなり、確信に達すると現実となります。この流れはなかなか途中で止めれません。人にとっては、こういう風に、下に落ちる滑り台に身をまかせることは努力の要らないいとも簡単なことであり、そのために必要な負の連想も安易な想像力で事足りうるので、誰もが陥りやすい罠なのです。

逆に考えれば、自らすすんで自分の未来に恐れるべきことが起こりうるなどと想像しないことが重要で、少なくとも、ふと湧き上がった軽い疑念の段階で完全に駆除してしまうことが必須です。

こんなにも負の想像力が豊かならば、反対に正方向、つまり望ましいことの実現を想像することに専念し、その過程となる連想を、負の時と同様に上手に具体的に思い描いて行けたなら、自分の世界の明るい可能性が広がるでしょう。

ある偉人が言っていたように、「恐怖は信頼の欠如」であり、自分の世界に恐れを招き入れる人は、自分の世界の変幻自在な特性への確信がない人だということです。