自己監視

自分を監視することはとても重要だ。しかし、徹底して自分を監視している人をほとんど見たことがない。そこそこやっている人たちと、ほぼやっていない人たちを合わせるとほぼ全てかもしれない。

 
ほぼやっていない人たちは、そもそもそうすることの必要性や効力に気づいてすらいない。こういう人たちは、誰にも見られていないときとところでは、どんな醜態や場合によっては悪事さえも平気で振る舞うし、鏡に写して見ない限りは、自分自身を客観視することは皆無だ。彼らは自分だけの世界では何でもやりたい放題なのに、自分の目で直接見たり、自分の耳で聞いた自分以外の人の好ましくない振る舞いには、非常に厳しい批判と叱責を浴びせがちである。
 
多少自分を監視できる人たちは、少なからずの向上心があり、できれば自分の人生や境遇を改善したいと思っている人たちだが、彼らは自分の都合に調子が良く、部分的にストイックになれて、何かの目標みたいなものを達成すべく積み重ねていけるが、一旦自己監視がオフになると、エゴや怠惰や非情や下卑な言動で溢れている。
 
人間が神様を創り出したのも、自分より上の立場の存在から常に自分が見られているという状況を設定したかったからでもあるだろう。実際に世界のどこかでは、一日24時間神様に見られているという前提で、見られていても恥ずかしくない生活を慎ましく営んでいる非常に敬虔な方々もおられることだろうが、どの宗教にかかわらず、ふと、神様が見ていない時間を勝手に作ってしまいがちな人たちがほとんどであろう。それが、日本人のような、大多数が仏教を慣習のようにゆるく取り入れているだけの人たちは、自分しかいないときには誰からも見られていない、として振る舞う。
 
人間は、自分がどれだけ自分に厳しくできるかで、その人の人格や人生を左右する。いくら、目標や理想を持っていても、そのために行動していない自分を見過ごせば見過ごすほど、目標や理想からは遠くなる。つまり、世の中で成功していたり尊敬されていたりする人たちは、平均的な人たちに比べればかなりストイックで、自己監視能力が高いと言える。
 
経済的優位や地位、名声などを目標にしない場合でも、自分自身の精神性を高めたい、神に近づきたい、と思っているような真理探究者たちこそ、自己監視能力は極めて大事となる。彼らは、できる限り利己を排し、欲を抑え、怒りを捨て、平静な心情で生活することを心がけるのだから、自分の言動が常に客観的に評価されるためには、自己監視しかないのである。
 
まとめると、世の中には、他人の前でも家族の前でも自分一人のときでも音を出しておならをする人。他人の前では音を出しておならをしないけれども、家族の前や自分一人のときには音を出しておならをする人。他人の前でも家族の前でも音を出しておならをしないけれど、自分一人のときには音を出しておならをする人。他人の前でも家族の前でも自分一人のときでも音を出しておならをしない人、に大別される。そしてこれらは、各人の明確な選択によって行われている。

自分の子供が大好きで愛おしいならば

私は、自分の子供がとてもとても大好きだ。何を当たり前のことを、と言われるかもしれないが、理屈ではなく単純に大好きだ。自分がこの世に生まれてきて今まで持った感情の中で、自分の子供を愛おしく感じる以上の幸福感を味わったことがない。

 

もちろん、子供は親の所有物ではないし、それぞれの役割や立場は違えども親も子供も対等な人間同士だと思っている。しかしながら世間では、あたかも子供が親の所有物であるかのような考え方をしたり、親が子供の存在に依存した行動を多くとっている親がちょくちょく見受けられるのも事実であろう。

親が、いつまでも子供と一緒に過ごしたい、そう思うのは仕方ないとは思うが、思うのとやってしまうのではわけが違う。しかし、最近は、自分の生きていく楽しみを子供に転嫁し、子供の生活や将来を自分の手の届くところである程度手も出したいと思っている親が少なくなさそうに見える。そういう親の場合、多くは、自分の人生に挫折したり、諦めたりしていて、自分自身の未来においては大した発展の可能性も見い出せず、発展する可能性があるのは、自分の子供の成長と能力や子供自身の世界だけだと思い込んでいるようだ。

 

子供は親のしたことを繰り返す、と言われるが、子供の存在に依存する親たちのすべてが、自分もまた自分の親に依存された、というわけではないだろう。しかしながら、繰り返してしまっている人たちもたくさんいそうではある。そうであっても、そうでなくても、実態としての性質は似ている。自分が空っぽなのだ。無論、本人はそう思ってはいないし、それを指摘されても激怒するだけだろう。自分も親に依存された人たちは、不幸せな親に過干渉され、嫉妬され、喜怒哀楽をぶつけられ、いつしか親が望むことに応えることが自分のなすべきことのすべてとなって、自分自身のために自分で考えて行動する、という当たり前に必要な思考、行動様式を会得できなかった結果、親に応える自分ではない個の存在としての自分が不在となってしまっている。親に依存されなかった人たちの場合でも、目まぐるしくその価値や道徳を変えていった社会の風潮や要請に振り回され国家や経済世界にそそのかされだまされた結果、ぶれない不変の自己が形成できず不満ながらも社会に迎合し続けた結果、社会に対応するだけの自分ではない個の存在としての自分が不在となってしまっている。

 

自分の子供を愛おしく思うのは、基本的にはただの本能だ。この部分はおそらく原始的な人間社会から今に至るまで、ほとんど変化はないだろう。しかしながら、社会が要求する親子関係のあり方や子供の教育方針は、場所と時代によって様々に変わっている。私たちは常に、時代というよりも、その時代の経済世界やそれに影響される国家の都合と思惑によって翻弄され、振り回され、利用され続けてきたのだ。

第二次大戦中には、国民は国に尽くすべきものだと親子ともども教え込まれ、自分の子供を兵隊として強制的に取り上げられ、平和な時代には、働き、購買し、消費するためにコントロールされ、また、いつしか平和でなくなったときには……。

 

親が骨抜きでは、子供は導けない。子供は親の所有物ではないし、ましてや国家の所有物ではない。しかし、子供たちは親の能力や都合以上に、国家の能力や都合によって運命が左右されてしまう。私たち親は、子供たちが国家や経済世界に誘導されるのを黙って見過ごしてはいけない。そのためには、私たち親が、骨抜きではいけない。モノや娯楽で薬漬けのようになって奪われた、考える時間と意志を取り戻さなくてはならない。

 

私たちが、本当に子供を愛しているのならば、子供たちの未来をおかしなものにされないように、まずは自分たちが目を覚まして、子供たちを自分たちの手で導かなければならない。

日本人として

私は日本人として日本で生まれました。

そこはアメリカに戦争で負けて、アメリカの軍隊が駐留している不思議な独立国でした。

原子力爆弾を世界で唯一、しかも2発も落とされた被爆国でした。

散々な負け方をしたので、戦争をしないことを憲法で誓う国になりました。

日本人は暗い、はっきりしない、おどおどしてる、つまらない、と言われて育ちました。

アメリカ人は明るい、はっきりしている、堂々としている、楽しい、と言われて育ちました。

日本人は不格好だが、時間に厳格で勤勉だと教わりました。

外国人は綺麗だが、時間に曖昧で怠惰だと教わりました。

大人になる頃には、日本は世界一の経済大国と言われていました。

世界中の高級品を買い漁る日本人を、外国人が嫌な顔をして見過ごしていました。

間もなく、日本の景気は悪くなりました。

実体のないものに利益を生ませた当然の成り行きでした。

地震原子力発電所が爆発したので、原子力発電を止めようとほとんどの日本国民が誓いました。

間もなく、政府と大企業は、原子力発電は安全で効率的だといって、再び自国や外国に売り込み始めました。

今では、日本人は親切で優秀で選ばれた民だという声を聞くようになりました。

戦争をやってもいい国に変えられ始めました。

世界の大企業のための貿易条約が中身も知らされずに秘密交渉されています。

日本の空にアメリカ軍の飛行機が頻繁に化学薬品を散布していることが明白なのに、政府は何も国民に知らせてくれません。

政府は大企業のために一所懸命働くようになりましたが、それは庶民からの搾取という犠牲を強いることでした。

世界で起こっている事件を、味方の都合のいいようにだけしか報道しなくなりました。

誰が味方で誰が敵なのか、何が本当で何が嘘なのか分からない疑心暗鬼にさせられてしまいました。

 

 

二元

あなたがもし善人と呼ばれているなら、あなたの周りには悪人がいる。

善人とは、悪人に対比した用語だからだ。

この世に悪人と呼ばれる人たちがいなければ、あなたは決して善人とは呼ばれない。

あなたはただの普通の人だ。

 

あなたがもし大金持ちと呼ばれているなら、あなたを支えている貧乏人がいる。

ずば抜けたお金持ちは、搾取なしでは維持できない。

莫大な利益を生むビジネスは、どこかの誰かを大勢搾取することによって成り立っている。

この世に搾取される弱者がいなければ、あなたは決して大金持ちにはなれない。

あなたはただの裕福な人だ。

 

あなたがもし男性と識別されているなら、あなたを異性と意識する女性がいる。

女性があるから男性がある。

あなたは絶えず異性を指向し、異性と交わろうとする。

そのエネルギーが新たに性別化された個体を殖やし、新たなエネルギーを生じさせる。

女性がいなければ、男性はエネルギーを温存しながら生きるだけだ。

 

あなたがもし光を求めるのなら、 あなたは闇をも受け入れねばならない。

闇の上にしか光は現れない。

光が愛に満ちた恍惚であるとき、闇の冷たい無限の怖れに包まれている。

光は闇に際立たされている。

 

 

「期待」の罪

私は他人とはほとんど全く口論することはないが、家族とはしばしば口論をする。これは、他人に対して期待をしていない一方、家族には勝手に期待をしているからだと思う。

  

期待というのは、実に利己的な心の状態で、相手の都合や思惑に関係なく、一方的に相手の言動が自分に利益や楽しみをもたらすはずであろうことを待っていることである。家族を形作る前であれば、まだ他人である恋人のような恋愛関係にある相手にも、様々な期待を絶えず抱きながら過ごすことだろう。

  

もちろん、この期待というエゴ的要求の発想は個々人から排除すべきであり、お互いに期待をしない人間関係を築くべきである、という命題は各方面の説教者から掲げられてはいるが、一般的な人で実際に他者に対する期待を皆無として生活している人はほとんど見当たらないのではないかと思う。人によっては、期待を抹殺すべく常々意識を張っている場合もあるだろうが、逆に期待の罪を意識することなく、期待が人間にとって自然で害悪のないごく日常的な意識であるかのごとく捉えている人も少なくないだろう。

  

ただ、期待されるのが好きな人たちもそこそこいる。自分の才能と努力の結果を自分に期待し「期待に胸が膨らむ」状態にある人や、周りの人たちから期待されること、つまり、望ましい結果を得たときに誉めそやしてくれる前提をつくることが得意な人たちだ。彼らは、一種の「期待中毒」であり、期待される自分がアイデンティティとなり、ひっくり返せば、期待されないと自分が喪失してしまうのかもしれない。こういう人たちは、いざ、自分が自分自身や他人の期待を裏切る結果を出してしまうと、失敗者としての罪悪感を持ち、ひどい場合は廃人となり、良くても、次の期待に応える機会に到達するまでは罪人として苦い思いをしながら生きていく。しかし、この手の人たちは、比較的大きい期待をされている人たちであって、往々にして、期待されることをモチベーションにして、それなりのこと、時には偉業を成し遂げたりもする。

  

問題は、こういった大きな期待ではなく、日々無造作に発射しまくられている小さな期待である。自分が作った料理をおいしく感じてくれる期待、あげたプレゼントを気に入ってくれる期待、新しい服を格好いいと思ってくれる期待、自分の提案に同意してくれる期待。そんな一方的で勝手な期待に添えなかった相手に対する不機嫌で批判的な態度は、相手からすれば横暴以外の何物でもない。自分は普通に生活のひと時を過ごしているだけなのに、相手が勝手に何かをおっ始め、勝手に賛美を期待し、勝手に裏切られ、勝手に傷ついて、勝手に攻撃する始末なのである。

 
 つまり、期待は利己的な欲求であるがゆえに、相手に対する真の理解や愛情に欠け、当然の結果として、付随する行動は相手に伝わるものとはなりにくい。逆に、期待という利己心を退け、単純に相手を喜ばしたい、相手の実になることをしたい、という動機と心情で行ったことであれば、結果的に相手を利することになり、ひいては自分もまた喜びを得れるであろう。
  
結局、ポール・マッカートニー師匠が歌った、「あなたが得る愛は、あながた与えた愛と同等である」という大原則を忘れてはならないのである。
 
 
 

一切判断しない

自分の世界に起こったあらゆる事象について判断を下さないことを心がけている。

 

例えば、自分以外の人の言動に対し、正しいとか間違っているとか、好ましいとか好ましくないとか、判断のニュアンスは多様だが、そこで常に行っているのは、相手自身ではなく自分という観察者の立場から勝手に、自分の経験や価値観だけでなく、その時の気分までも材料にして判断を下す、という誠に一方的な見解である。多くの自称知的な人たちは、「出来る限り相手の立場に立って客観的に判断しています」と言うだろうが、相手の生い立ちや今までの経験やその時の状況、さらに心情を直接感じることは不可能にもかかわらず、相手の立場に立ったつもりになったり、ましてや判断を下すなどという態度自体が高慢なのである。

 

やるとすれば、「判断」という断定ではなく、「推測」だろう。推測という態度には、あくまでも自分の経験や知識に照らした上で、間違っているかもしれないけれども、そうではないかと仮定してみる、という謙虚さと、修正の余地を含んでいる。しかし、推測さえも、限りない想像力の織りなした一つのパターンでしかないにもかかわらず、詳細化し過ぎると、イメージが鮮明になり、真実と混同してしまいやすくなるという罠がある。

 

他人ごとではなく、自分自身にふりかかった事象に対する反応においても、判断は避けなくてはならない。

自分が生きている中で起こった予期せぬ出来事や、特に好ましくない事象について、「なぜこういう事が起こったのだろう?」、「この出来事は自分にとってどういう意味があるのだろう?」などと定義づけを行おうとすることがあるだろう。しかしそこでも、自分がこういう原因をつくったからとか、自分の能力、努力、実態などと結びつける判断を下すのは避けた方がいいと思う。そういう断定の積み重ねが、自分自身の能力に限界を築き、精神的にこわばらせてしまうかもしれない。もちろん自分にとって好ましい事象が起こったときでも、過度に自分の運や才能のせいにばかりしていると、奢った人格の形成への助けになるかもしれない。

 

人が何かを決断するとき、それは判断をしているのではなく、選択をしているのだと思う。それを判断をしていると思い込むと、その度に正解を得ている気になり、いつしか自分は常に正しいという錯覚に陥り、自分とは違う見解に対して「間違っている」というとんでもなくエゴイスティックで狭い見識を持って生きていくことになる。

 

判断する癖をやめると、自由が拡大する。人は、ことあるごとに判断しなくてはならない、という勘違いを持っていることが多いかもしれない。しかし、自分以外の人の言動についての正誤の判断は必要ないし、自分自身の状況に対する良し悪しの判断も必要ない。判断をしてしまうと、相手や自分に対する評価が伴ってしまう。誰々のそういう言動は間違っており、間違うということは知性が低い、といった具合の一連の思考を巡らすはずだ。

 

私もあなたも常に自分や他人に対して裁判官の審判のごとく判断する立場も必要もなく、推測のような仮定さえも必要なく、ただありのままを受け取れば、より自由になるだろう。所詮、あなたが見ているあなた自身やあなた以外の状況は、あなたの意識の反映に他ならないのである。