「変わる」ということ

変化は安定である。

 
私は若い頃、自分は変わってはいけない。変わる必要はない、と思っていた。子供の頃から色んなことを考え、少しずつ価値観を形作り、自分なりの哲学や宇宙観を築き上げ、青年と呼ばれる頃には、それなりに何にでも対処できる理論武装を身につけて、個性的に人生を楽しむ方法を修得していたつもりになっていた。懸命に真面目に作り上げた自分だったから、他者の意見で容易く自分の考えを改めたり、ちょっとした失敗くらいで自分の処世術を修正する気など露ほどもなかった。井の中ではそれなりに支持されていた自分のキャラクターを裏付けている価値観を変えることは、格好悪いことだとすら思っていた。
 
大人になるとやがて、それまでの自分では通用しない、予想だにしなかった受け入れ難い出来事にいくつも直面することになった。そのときの自分のキャパシティーでは対処しきれないものだった。対処しきれない自分が悪いのではなく、対処しきれない問題を起こす相手が悪いのだと決めつけるしかなかった。自分の小さな器、狭い視野、柔軟性のない発想が自分を悲劇に陥れ、相手に罪悪を押し付けていることを受け入れきれなかった。
 
結局、それらの困難から脱け出すには、自分の凝り固まった価値観を変え、自分を修正するしかなかった。器を大きくし、視野を広げ、 発想を柔軟にするには、自分が信じてきたものを覆すしかなかった。
 
一旦変わる術を身に付けると、変わることが楽しく思え、変わることは方向転換ではなく進化なのだと気付いた。
 
そのときの状況がどんなに安楽で、どんなに完成されたように思えても、そこから変わらないことは停滞であり没落である。変わるということは、時間という次元概念を利用して変遷することである。私たちは時間のある次元に住んでいる。であれば、変化することを体験しにきているのである。
 
かつての私のように、変わることは、移り気であり優柔不断だと勘違いしている人たちがたくさんいる。言ったこと、誓ったこと、心に決めたことを曲げてはいけない、と。勿論、軽々しい明言と撤回の繰り返しは、ただの思慮欠如のなせる技だが、不変を美徳とすることによる硬直は、気付かぬうちに自分の足を退化の沼にはめている。
 
変わることこそが進展であり、好転でれ悪転でれ、変化そのものの結果であるが故に、好転を望むならば、必ず変化を経なければならない。
 
まわりを見渡してみれば、実に万物が着実な変化の途上にあり、植物は成長し、枯れ行こうとし、動物たちは絶え間ない新陳代謝を続け、無機質に見える物たちも、新たに築かれ、朽ちていき、永遠の化学変化を示し、ゆっくりと穏やかに変遷している。こういった自然の速度による変化のタペストリーとしての風景こそが、平和という抽象概念を表象したものである。
 
変化は安定である。