嘘という威圧

ときどき、どうにもこうにも我慢ならないときがある。

 

なぜ、ああもいけしゃあしゃあと嘘をつけるのだろう? ひょっとすると、まさか自分が嘘をついているなどとは露ほども思っていないのかもしれない。そうでなければ、そんなに明白な嘘をついて誠しやかな顔をしていられるはずがない。まるで、人の視覚情報がその人の思いの影響で容易に歪められるのと同様に、数時間前の自分の言動に対する記憶すら、その人の都合のいいように修正され、本人により確信されてしまうのだろうか? 微妙なニュアンスなどに対する本人と受け手との間に生じる印象や記憶のギャップはありふれているだろうが、明確に放った言葉が、受けた相手の記憶と全く違うのは犯罪行為に等しい。

 

こういったある種の暴力とも言える、相手の記憶に対する弾圧は、往々にして強者と弱者か利己的な者とそうでもない者との間において行われる。立場が上の者が下の者に対して発動した威圧や侮辱は、そこに第三者となる目撃者が存在しない限り、立場が下の者が勇気を振り絞って告発しても、ただ「やっていない。言っていない。大袈裟に捉えている。誇大妄想だ」といったけちらかしによって、証拠なきこととして一掃されてしまうのだ。

 

こういうことは、日常的に、あなたの家族の誰かとその上司、教師、先輩、年輩、顧客そして何かしらの団体の上役らとの間で行われている。また、被害者である正直な弱者は、そんな苦しみを誰にももらさず、自分一人で耐え忍ぶよう努力し、またそうすることが美徳なのだと思い込まされている。そしてそういった弱者の悲しい忍耐に、嘘つきの強者は日々つけ込んでいる。

 

人間の中には実に汚い性格を持った者が実に多くいる。しかも、そういった連中のうちのかなり多数が自覚していない。自覚した厄介者もたくさんいるが、自覚していない偽善者ほど性質の悪い者はない。人間のほとんどは幾分において偽善的な振る舞いをしがちではあるとはいえ、ある程度の人たちは自覚しやすく、いつしか偽善に気づき、恥ずかしさを覚え、改善を試みる。

 

 

それが社会だ。大人ってものはそんなもんだ。そういった不条理をくぐり抜けることで、社会に適応して行くんだ。と言う奴もいそうだが、そんな奴は社会の敗北者だ。負け犬の論理を遠吠えしているだけだ。そんな社会は汚れた場所だ。そんた大人はクズだ。そんな世渡りで世間慣れしているつもりになっている者は残飯をあさって生きている動物と同じだ。

 

 

あなたの大事な人が、どこかの横暴な嘘つきによって、心を傷つけられているかもしれない。度重なる傷に慣らして心の皮を分厚くさせるより、美しい笑顔の源である繊細な心のままで守ってあげよう。そうできるよう、あなたや私が聡明な愛を強化しよう。