4年ぶり

このブロブを前回更新して以来、約4年ぶりとなる。

 

この4年間には、世界でいつくかの大きなことが起こった。

その時期を飛び越えて今、久しぶりにブログを書くことになったのは、それらの大きな世界の変化に翻弄されていたわけではなく、むしろ、個人的な波乱万丈があって、それらへの対応にほぼ没頭してきたからだ。

 

個人的な問題にある程度の解決がついた今、これまでの世界を振り返ると、やはり、コロナ、ウクライナパレスチナであろう。

 

コロナとウクライナに対する日本における情報と認識はひどかった。

 

しかし、パレスチナに関しては、少し違う。

アメリカ政府は事情により、イスラエルを支援してパレスチナを軽んじているが、なぜか日本では、パレスチナに同情的な報道がそこそこある。ウクライナ紛争に関する報道とは違って、アメリカ政府からの規制やアメリカ政府への忖度がかなり弱い気がする。

これは、日本が必要な石油資源のほとんどを中東地域から輸入しているため、パレスチナを支援するイスラム教徒である中東の国々の機嫌を損なわないようにしているから、ということだけなのだろうか。

親の愛、宇宙の愛

人間は、常に絶対肯定してくれる存在を必要とします。人生において遭遇する様々な失敗や苦難を乗り越えて前に進むためのエネルギーとなるからです。その絶対的肯定は、通常、自分の親から注がれる、見返りを求めない愛、無条件の愛であり、親が存命していようがいまいが、充分に受けた絶対的肯定としての愛は、ずっと受け続けられます。

 

しかしながら、その絶対的肯定愛を充分に受けられなかった人たちがたくさんいます。生まれる前や生まれて間もなく、もしくは幼少の頃に親を亡くしてしまった人、自分の親自身が何かの理由で子どもに無条件の愛を充分に注げなかった人。むしろ、今、生きる力に不足している人たちは、親がいなくて直接愛をもらえなかった人ではなく、親が身近にいたのに、その親が絶対的肯定愛を注げなかった人です。健全な親をもつ知人友人と自分との相対的失望も加わり、親からの愛がゼロかわずかだったことが、マイナスの域へと引き下げられることもあります。

 

本来、親の自分の子どもに対する絶対的肯定愛は、本能に根差す自然なものです。しかし、その本能さえも覆す異常は、親本人の選択ではなく、社会的要因によるものです。親もまた、その親からの絶対的肯定愛を受けられなかった場合もあるでしょうが、どこに遡ったとしても、発端には社会的背景による原因があります。いつか誰かが、急に自己の選択と決意により、本能に根差した我が子への絶対的肯定愛を放棄することは有り得ないからです。

 

社会的要因には、複雑で様々なことが考えられますが、それが戦争であれ、貧困であれ、過当競争であれ、犯罪であれ、国家的施策であれ、国際的圧力であれ、いずれにしても、個人としての回避や対抗は困難なものです。そうなると、絶対的肯定愛のリレーを断ち切った自分の親もしくは祖父母かそれ以前の祖先の誰かを責めても解決の意味は持ち得ません。

 

人間の社会生活の中で、最も身近で長く観察でき、影響をも被る対象となる他人は配偶者です。私自身の環境の場合、私は自分の親からの充分な絶対的肯定愛を受けた感覚があり、私の配偶者は逆に自分の親から受けた絶対的肯定愛にかなりの不足感を抱き続けています。私が、子ども時代はもちろん、特に親元を離れた若い頃、自分が失敗し、挫折し、失望したときに、助けとなり、乗り越えて前に進む絶大な力となったのは、親からの絶対的肯定愛への確信でした。一方、私の配偶者は、私と出会い、生活を共にするようになった若い頃から、自分たちの子どもを授かり、育っていく間、そしてそろそろ自分の孫ができてもおかしくない今となってもなお、一人ぼっちの感覚のまま、充分な生きる力に不足しています。いまだに、足り得る親からの絶対的肯定愛への確信がないまま、自分の子どもへの絶対的肯定愛の注ぎ方の本能的要領を得ないままです。

 

血縁的に他人である私が注ぐ、そこそこの絶対的肯定愛を受けるアンテナの感度は乏しく、私からの絶対的肯定愛を受けながら本能的にも無条件に親へ放つ子どもたちからの愛を受け続けてもなお、絶対的肯定愛を信じ、そこに安堵を見出し、勇気の源とすることができないでいるのです。

 

子どもは、成長するにしたがい、親との関係より、自分自身の世界や自分自身の子どもたちへの愛を重視するのが当然であり、寂しさは伴うものの、それ以上に、子どもが自分の人生や世界を充実させ発展させることに、親も幸福感を得るものです。しかしながら、自身の親から受けた絶対的肯定愛が乏しい子どもは、成長してもずっと、親との関係や親自身の境遇を気にかけ、自分自身や自分の配偶者や子どもたちとの世界を無意識に軽視してしまいます。しかも、その軽視は、自分の配偶者や子どもたちと一緒に過ごす時間や関わりの軽視であるよりも、自分の配偶者や子どもたちの人格の軽視になりがちです。子どもの趣向や人生の進路を知らず知らずにコントロールし、子どもの生活や意志を支配することで、自分とは個別の独立した人格を軽視して無意識に束縛するのです。時間やお金や関わりをたくさん使っている親には、子どもを軽視している意識はおろか、子どもに尽くしているかの錯覚があり、それに慣れた子どもの方は、親の価値基準に頼り、自分自身の選択や意志決定能力が育ちにくくなってしまいます。そして、独特の趣向や価値感があり、自分で選択決定するという自分自身の存在が確立できずに、自分の存在や価値を確かめるために他者の反応を要してしまうという、他者への依存を不可欠として生きていくことになるのです。そして他者への依存を続ける限りは、いつまでも独特な個としての自分自身を確立し、認識することはできません。

 

今の私には、成人した子どもとまだ幼少の子どもがいます。私が若くして親になり育てた子どもたちのときには、感じたり気づく余裕がなかったことも、学びと経験に基づいて得た経済的精神的余裕が多少はある今育てている幼少の子どものことはより観察でき、そこから色んな気づきを得ます。当然ながら、親からの保護と養育を要する生後から幼少の時期の子どもは、一定以上の境遇にさえあれば、親の状態や状況がどんなであれ、無条件に親を信じ、愛し、基本的に幸福感を持って生きています。そして何よりも、親からの愛を確認し続け、その確信に他の何よりも幸福を感じていることがわかります。その連続により、親からの絶対的肯定愛を受ける感度を確立し、成長した後には、目の前にいない親からの絶対的肯定愛を受け続けるアンテナを持ち続けます。そして、親個人の特段の意識のない、その絶対的肯定愛は、自身の親という最も身近な血縁者から発せられる限定的なエネルギーではなく、宇宙のエネルギーの一部として無意識に感受できるようになるのです。

 

親から受けた絶対的肯定愛が乏しい人は、孤独を感じていることが多いです。同じ、親と死別した人でも、絶対的肯定愛を受けた人は、亡くした親の存在に執着せず、親の物質的存在を失くした後でさえも、親からの絶対的肯定愛をチャンネルとする宇宙の愛を受け続けます。一方、親から受けた絶対的肯定愛が乏しい人は、親を亡くすと、ただでさえ乏しかったその親からの絶対的肯定愛が永遠に遮断されたように感じ、失くした親への未練が強く、ますます宇宙の愛というエネルギーの感受から遠ざかります。

 

親からの絶対的肯定愛に乏しく、錯覚でしかない自己の孤独感に苛まれ、他者からの評価に依存した人は、自身から絶対的肯定愛を放つことも、絶対的肯定愛の根源である宇宙の愛というエネルギーの存在に気づくことも容易ではないかもしれません。自然界に生きる動物も、植物と同様に、派生した宇宙のエネルギーの循環の一部として、生きる意味を問うこともなく、命という時間とともに変化するエネルギーの流れを経験し、次につなげる、という、宇宙のエネルギーの流れに乗り、宇宙の愛に包まれているように、人も、絶対的肯定愛の存在を確信し、絶対的な宇宙の愛に包まれた、宇宙の壮大なエネルギーの一部としての孤独ではない個別の部分的な存在としての自己であることの意識を、より多くの人が共有することによって、境遇により絶対的肯定愛に不信な人たちに少しでも本質的な愛を感受させることの助けになるのだと、私は思っています。

奇妙な飛行機雲

私は、いつだったかは忘れたが、少なくとも5年以上前に、朝のマイカー通勤途上の空が以前よりも白くかすんでいることに気付いた。その日だけのことではなかった。夏から初秋の晴れの日には透き通っているはずの青空が、まるで薄白いフィルターをかけられたみたいにかすんでいる日が多いことに疑問を感じたのだ。

 

それまでは、単純に快晴ではなく薄い雲に覆われた淡い水色の空模様の天候に過ぎないか、光化学スモッグか、黄砂のどれか漠然と疑問にも思わない残念な空模様の日々が多いことを何となく感じていただけだった。しかし、ある日の朝に空を見たときに不自然な違和感で「おかしい」ことに気付いた。その日の青空の手前にも広がっていた薄白いかすみは、人工的に交差した何本もの雲の直線が膨張したように広がっているように見えたからだ。明らかに不自然だった。

 

その日以降、より意識的に空を観察するようになった。すると人工的な雲の直線がまさに形成されるところを発見した。それは上空に小さく見える飛行機の飛行軌道に描かれる白い筋だった。同時に2機の飛行機が白い筋を引っ張りながら飛んでいた。素人目にも、その飛行角度や方向が民間の航空機の軌道ではないことが分かった。

 

当然ながら、最初はいわゆる飛行機雲だと思った。しかし、その色や濃度や挙動は、私が知っていた飛行機雲とは違っていた。私は子供の頃から空を見て過ごすのが好きで、飛行機雲もよく眺めた。確か、普通の飛行機雲は、雨が降る前の湿度が増した天候状態のときに現れ易いとされる意図して噴出されるものではない現象だというのが私の認識だった。例外として、空に文字を描くデモンストレーションがあることも知っていた。しかし、私が何度となく好んで見入っていた飛行機雲は、青空に透ける白い筋で、飛行機から離れるとやがてぼんやりと広がりながら「消えていく」のだった。

 

それに比べると、私が違和感をもって眺めているこの別種の飛行機雲は、濃い白色で、飛行機の尾から噴出されているように見え、長々と続き、消えることはなく、やがて横に幅を広げながら拡散して、だんだんと青空を薄白く覆っていくのだった。これは明らかに私が知っている、私の好きな飛行機雲ではなかった。

 

その日以降、意識すればするほど、頻繁に、そのおかしな飛行機雲を見た。透き通った朝の青空に何本も何本も、時には碁盤の目のような交差模様を作るように、白い筋を引っ張って、その白い筋たちがだんだんと太く広がって、やがてはお互いがくっつき合うように空全体を薄白く多い尽くすのだった。

 

私たちを心地よくさせるせっかくの透き通った青空をどこかの誰かが白く濁らせているのだ。私が住んでいるのは日本だ。住民である私たちに何の説明も無く、誰が何のためにやっているのかも分からない、空の人工的な白濁化が行われているのだ。私たちが暮らす上空への明らかな作用を施しているこの活動について、少なくとも国には説明をする義務があり、私たち住民には説明を受ける権利があるはずだ。

 

この不可解な人口操作現象を、ネットを中心に調べてみると、「ケムトレイル」と呼ばれるものに合致することが分かった。世界中の先進国を中心に頻繁に観察されている現象で、米国軍機による化学物質の噴霧行動であるとする認識を主として、有害物質の撒布であるとか、気象操作であるとか、ただの飛行機雲に対する陰謀論であるとか、科学的検証によるものや実際の関係者による証言とされるものを含めて、いくつかの見解があるようだ。

 

ケムトレイルの意図は、当然ながら行為主体には認識されているものの、確固たる説明や証拠を与えられていない我々一般大衆にとっては、少なくとも今のところは、その正体や目的を結論づけることは出来ていない。

 

ケムトレイルを認識して以来、私にとっては、その正体が分からないまま見過ごしたり許容できたりするものではない、不可解で不気味で嫌悪感のある現象であり続けている。私たちの空を勝手に何の説明もなく、一方的な理由によって濁す、この行為は、まるで、私たちが、国家かもしくは他の支配権力によって有無を言わせず奴隷のように服従させられているかのような感覚さえ芽生えさせてしまう。

 

私は、このような類の不愉快な事柄を、すすんで誰かに広める気がするタイプの人間ではない。たまに気が向いたときに、気が向いた人にだけ、思い立ったように話してみることがある。そこで驚くのは、誰一人として、ケムトレイルという言葉はもちろん、その存在を知ることもなく、それ以前に、自分の暮らす場所の空に引かれる不自然な飛行機雲や不自然な雲の広がりにさえ気づいたこともない、ということだ。現代の生活では、空を見上げることさえ、あまりしないのだろうか。

 

ケムトレイルが何なのか、誰が撒いているのか、何故説明がなされていないのか、を調査究明することは、当然ながら必要なのだろうが、それ以前に、私が一番重要だと思うことは、「気づく」ことだ。異変に気づき、違和感を持ち、疑問を呈し、意識する。これはケムトレイルだけに限ったことではない。

 

知らず知らずのうちに、国家や大資本や見えない何かの大きな権力の実験対象となり、奴隷となり、搾取されるのを許容したくないのであれば、まずは気づくしかない。相手は底なしの資金と科学技術と巧妙な心理操作と脅しを駆使してあなたたちからエネルギーを搾取することで権力を維持するのだから。

 

少なくとも私は、騙されたくないし、騙されたままでいたくはない。

 

違和感

もし、あなたが、生きていてしっくりこなかったり、浴びせられている情報に直感的に疑問を感じることが度々あるのならば、それは、あなたに真の知性があるという証拠です。

 

あなたの周りを見渡して下さい。テレビや新聞から流される画一的な情報を事実だと思い込み、国中で同一の感情を持たせられ、とてつもない規模の集団として時には同情し、時には歓喜し、時には悲嘆し、時には恐れ、そして時には怒っているのです。あなたの周りの人々の多くは決して裕福ではないのに、不必要な物を買うことに必死で、アルコールや人によってはギャンブル、セックスの中毒となり、スポーツに夢中になり、食べることや着飾ることのために徘徊し、家族として過ごす時間は少なく、洗脳され、無能化されているのです。

 

しかし、真の知性を生まれつき持ち、わずかながらでも保持しているあなたにとっては、この世界で繰り広げられていることはあまりにも矛盾と偽善に満ち、虚構に支配されており、下らないことが多過ぎてばかばかしいと感じているはずです。あなたは飼いならされた羊たちから言われるかもしれません。「地に足を付けろ」「何も変わりはしない」と。そしてあなたはためらい、迷っています。自分の真の敵は誰なのか、国家なのか、イデオロギーなのか、強大な資本家や企業家のような搾取者なのか、それとも自分自身なのか。何を変えるべきなのか、コミュニティーか、社会か、国か、世界か、それとも自分の中の信念なのか。

 

でもあなたは立ち止まってはいけない。諦めてはいけない。たとい今何をどう実行すればいいのか分からないとしても、あなたは着実に進化している。

あの国の大統領選挙について

先日行われたアメリカ合衆国大統領選挙の結果とその前後に関することについて、取り敢えず私見を述べてみる。

 

まず、結果については、事前に予想を表明しなかったからには、後付けでどうにでも言えるのでは、という批判を覚悟で触れると、少なくとも二者択一の段階になった以降は、私的にはトランプ氏を強く支持していたものの、正直に言うと当選は難しいのではないかと思っていた。それは、ヒラリー氏がまともかつ有力でトランプ氏がまともでなく支持が足りないからということでは全くなく、むしろトランプ氏の支持の方が実際的には強かったとしても、隠れた敵対する巨大な力によって歪められて当選を阻まれてしまうのだろう、と思っていた。同じような主旨のことはウィキリークスのアサンジ氏も事前に述べていた。

 

実際に敵対する勢力が主にマスメディアを使って不公平で不公正に反トランプキャンペーンを展開したことは既成の事実であろうし、証拠が明白ではないが一部で噂された票操作による不正選挙の真偽は別にしても、少なくともトランプ氏が大統領には不適格というレッテルを世界中(とはいえ現実には西洋とその同盟国に限られるのだろうが)で貼ることに成功したにもかかわらず、思惑通りの結果にならなかったということは、いかにヒラリー氏の支持が相対的に低過ぎたかということの表れであり、見誤られ過小評価された支持差のギャップを埋めるほどのエネルギーは注がれなかったということだろう。

 

色んな角度からの情報を冷静に分析すれば、選挙戦におけるトランプ氏の支持集会への動員や盛り上がりに比べて、ヒラリー氏の集会の動員の乏しさは顕著であったことに気づかない方が難しい。頻繁かつ執拗に報道され続けたトランプ氏の暴言?は彼の長い演説の中のごくごく一部を切り取って効果を施した悪意のある編集演出であった反面、彼のまともな言動がマスメディア上で黙殺されている事実は現地の多くの人たちが伝えていたし、彼の訴える政策に関しても、人種差別的とされる事柄だけが取り沙汰され、彼がヒラリー氏に比べずとも目を見張って平和志向なことは、ここ日本においてはほとんど伝えられていない。むしろどういう論拠か彼が大統領になろうものなら核戦争の可能性が高まるというイメージさえ植え付けられてしまっており、何と私の中学二年生の子どものクラスでは、トランプ氏の当選のニュースに対して大多数が失望し、戦争の近まりを口にする子が少なくなかったというのだから驚きである。

 

私自身、トランプ氏を支持した理由の一定の部分が彼が示した方向性への賛同であったと同時に、一定部分はヒラリー氏にどうしても当選して欲しくないという相対的なものだった。これもまたここ日本ではほとんど表舞台では報道されていないばかりか、本場のアメリカ合衆国においてさえ情報の拡散は乏しかったようだが、ヒラリー氏という人物はISISというテロ組織の誕生を促し、中東や北アフリカでの米国主導による偽クーデターや戦闘行為を大いに助成し、結果的に今でも世界の複数地域で継続している紛争や混迷において一般市民が犠牲になり続けていることの原因に大きく加担している。それは当然ながら彼女が搾取的な金融資本や軍産複合体の利益に浴し仕えているためであり、そういった巨大な企業をスポンサーにしている彼女の立場としては操作的な国際緊張が導く軍拡と実戦による兵器の消費増大、軍事的優位を前提とする外国地域での米国資本の利権取得の下地作りが必須の仕事なのは明白である。ヒラリー氏があまりにも無慈悲な人間だという事実は日本のマスメディアは無知か圧力による偏向かのどちらかの理由から、一切報道することはない。アメリカ政府が継続しているロシアという進化的な国とその指導者であるプーチン大統領の悪魔化という嘘のプロパガンダにも、日本のマスメディアは従順に追随し、ヒラリー氏がプーチン氏をヒトラーだと評したことは批判もなく伝えても、なぜアメリカが真実をねじ曲げてまでもロシアに敵対したいのかという分析がなされることは無い。今回のアメリカ大統領選においてロシアがハッカー攻撃などにより親ロシア的なトランプを勝たせるよう某略を働いているという、アメリカ政府の常習犯的な嘘にも懲りずに事実かのごとく援護報道している。ちなみにその疑惑に関するロシア政府からの証拠提示の要求に対しアメリカは黙ってとぼけている。

 

つまりトランプ氏の資質や政策の隅々においての不安の問題が取るに足りないほど、ヒラリー氏の大統領選出を免れたことによって、戦争の拡大が回避され、遠くの国の子どもたちを含む多くの一般市民の無残で無慈悲な死傷が回避できたということである。それでもまだあなたたちの多くは、世間のトランプ批判に付き合い続けるのだろうか?

 

トランプ氏が選挙戦中に訴えていた政策が実際にはどの程度実行されるかは疑問だ。しかし大金持ち故にスポンサーが不要だった彼が、真剣に非富裕層の利益を追求するならば、自ずとその利益を損ねられる富裕支配層の阻止活動が立ちはだかることになり、歴史の例に倣うならば、彼が見えざる巨大な力により暗殺される可能性は低くない。

あなたを取り巻く罠 「働かざる者食うべからず」

あなたが生まれてから今まで生きてきた間に当然のように受け入れ当たり前と思っていること、言い換えれば常識、これらは誰かがあなたを隷属させるための罠かもしれません。


「生きるためには(生計を立てるためには)働かなくてはならない」ということは当たり前のことであり、大資産家やその子息でもない限り、人間は衣食住のために働かなくてはならないと誰もが思っているでしょう。ここでの勘違いは、自分自身と家族の衣食住のため以上に働くことが当然となっていることです。あなたたちが働いて生んだ利益のうち、なるべく多くを雇い主が回収し、あなたたちがそこで働くことを辞めないために考え抜かれた最低限度のみがあなたたちに給与されます。そしてあなたたちは、その最低限度の賃金のうちの一定を税金として引かれた後のかなりの多くの部分を必要限度を超えた衣食住やそれら以外の消耗品や趣向品の購入そして気晴らしに使います。そしてわずかに残した貯蓄分を預けた銀行は、あなたたちの預金を担保にその何倍もの架空のお金を他の誰かに貸し付け、利息とともに回収します。

つまりあなたたちは、資本家の利潤のために働き、企業家の利潤のために購買し、銀行家の利潤のために貯蓄しているのです。あなたたちの社会のために還元されると思い込まされている税金ですら、公共資金という名目で企業に還流されたり、国債の元本を賄わされた上でその利息を投資家の利潤として分配されます。

そして一方では、あなたたちが汗水たらして働いている間に、あなたたちがもたらした利潤の集積を所有し、働くことなく豪遊している人たちもたくさんいるのです。また、スーツにネクタイをして大企業の有望戦士気取りで颯爽と仕事をしている高慢な人たちもいますが、彼らは所詮体のいい小作人であり、まやかしの厚待遇を洗脳するに充分に組織化されるほど充分な規模の資本という耕作地を持った大企業という大地主の下で自己支出のスーツというユニフォームを着て得意気になりながらあくせくしている小ぎれいな小作人に過ぎません。


あなたたちが働いて生んだ利益のうちの、全部は難しいとしても、なるべく多くの部分をあなたが得て、またそのうちのなるべく多くの部分をあなた自身やあなたの家族のために利用する方法はあるかもしれません。