善悪はおまじない

多分、この地球上の文明のある所のほとんどで、善悪の存在や定義を、生まれて間もない頃から教え込まれている。しかし、そもそも善悪とは何だろうか?

 

 

性善説性悪説とかいう議論もあるように、人の行いには善や悪の評価が下される。辞書による定義は別にして、善は自分以外の人を害することなく利する行為や状態で、悪は自分以外の人を利することなく害する行為や状態を指すものだと建前的には定義できるだろう。しかし、善や悪の行為主ではなく、受け手からすると、他人を害することがあろうがなかろうが自分を利すれば善であり、他人を利することがあろうがなかろうが自分を害すれば悪、という利己的な定義がまかり通っているのも事実である。

 

実際には、国家などがそういった利己的な定義による善悪を採用していることが多い。自国に利益を与えてくれる他国は善なる国家であり、自国の利益を損なう他国は悪い国家だ。この前提では、国家であれ、個人や集団であれ、自己が勝手に目論む利益獲得の障壁や競争相手となる対象は、警戒すべき悪の行為者候補、つまり容疑者であり、それが実際に獲得した利益が勝手に予定したものよりも少ないもしくは皆無とさせられた原因となった対抗者は、悪の行為者であり実行犯と結論づけてしまう。

 

現実的に今日の世界でも、そういった利己的な善悪判断を大義名分とした逆切れや脅迫や、いじめのような戦闘行為が絶え間なく繰り広げられており、そういった暴力団的な振る舞いは実質的にはたった一つの国家とそれに媚びへつらう多数の取り巻き国家群の支援により行われている。そういった暴力団国家の行いは、世界中の大多数であるうぶな人々の目や耳には善なる行為のように思い込ませるための「民主主義」というまやかしのヴェールが被せられており、真実の中身である悪徳が見えないにようにして正当化するという手法が取られている。そしてもし後になって、その悪なる真実の一部が一般にばれてしまったとしても、うぶな多数派は過ぎてしまったことに激怒はせず、さらに忘れやすいという悪者にとって好都合な特性を備えているため、完全に善から悪へのイメージ転換がなされることはほとんど無い。

 

つまり善や悪は、偏った都合や主観的なイメージでしかなく、普遍的かつ万人にとっての絶対的な善や悪など存在しないのだ。善と悪が二元的であるが故に当然ながら相対的に存在するという意味にも通ずるが、それでも善や悪の各々の領域というのは変幻自在であり、多くの場合、演出されたものですらある。

 

 

母親のわが子を愛する思いや行為は別に善ではなく、本能的に当然のことである。逆に、たまにいる母親のわが子への愛情が不足している状態も悪ではなく、異常なだけである。ただ、こういう自然か不自然かのような状況にも、往々にして社会は善か悪かのレッテルを貼りたがる。

 

生まれてくるときから人を観察し続けたとしよう。もちろん、胎児の頃から善人だの悪人だの言われることはない。生まれて間もなくからしばらくの、ただ泣いて母乳を求めて排泄して眠って、時折色んな表情や声を出してくらいの時期には善行も悪行も働けない。はいはいをし出してから歩き始める頃には、相手をたたいたり、相手がいやがるふりをすると笑って喜んだり、落としたり、避けたり、壊したり、といった相手を困らせることをやるようになるが、これらも悪ではない。そしてやがて自分の物を固持しようとしたり相手の物を取ったりするようになる。これはモノに対する興味の現れと同時に所有感覚の発達である。同じことを幼児以上がやると、「悪いこと」とたしなめられる。大人がやれば犯罪となる。つまり、社会においては、モノは誰かに所有され帰属するものであるというルールに従い、勝手に所有権を奪うことは許されざる犯罪であるという法律に則った判断が下される。つまり、ルール違反は悪であり、相対的にいえばルールに適合すれば善となる。

もう少し成長して、園児や児童と呼ばれる年齢では、差別的言動が顕著化する。差別も本能的感覚だが、こういった差別は悪とされ、差別しないことは善とされている。この差別に対する善悪は、必ずしも法律などのルールに明確化された基準があるわけでないが、一概に社会的には良くないことだと広く認識され受け入れられている。それでも、多くの社会人たちが、他国民や他民族のことを、何人は嫌いだ、などとはっきり口にするが、そういった発言が不適切と捉えられることはあっても、悪いことだと即断されることはない。

 

自然動物たちは、全行為を本能に基づいて生きており、当然そこには善悪はなくただ生存するためだけに営まれている。一方、人間たちは、本能を制御させないと共存できない複雑かつ膨大化した社会に生きている。人間が本能を放置されれば、盗み、姦淫し、傷つけ、時には殺すだろう。こういった社会運営上不都合となる本能的行動が悪と定義され、そこを制御して社会秩序を乱さない人が善人とされる。つまり、善や悪はこの世の始まりから存在するわけではなく、社会が形成されて初めて、都合上概念化されたのである。農耕文明が始まって以来、人間の世界においては、巧みに土地を開墾所有し、そこでの農業生産を増やし、余剰を保存することができた人とそうでない人の間で不平等が生じ、その不平等は何千年後の現代でも形を変容させ複雑化させながらも脈々と続いている。そうした一握りの「持つ者」たちが運営支配する世界が社会であり、大多数の「持たざる者」たちを制御し利用することを維持するために、善悪というおまじないを発明し、私たち「持たざる者」は常におまじないにかけられっぱなしなのだ。しかも一握りの「持つ者」たちは善悪のおまじないによって本能を制御された私たち大多数の「持たざる者」たちの苦労のおかげで、自分たちは制御する必要のない本能を謳歌し、さらに物質欲という人間に特有な新たな欲望をほんのごくわずかずつ「持たざる者」たちに刺激し享受させることで、自分たちの物質欲を莫大に満たしている。

 

社会規範上は、自分がされて好ましいことは善であり、自分がされていやなことは悪であるが、社会運営上は、好都合なことは善であり、不都合なことは悪である。しかもその社会は、一握りの「持つ者」たちの利益のために巧みに改良を重ね構築されている。

 

 

思い

私が若い時に働いていた職場で、ある同僚が一人の上司を凄く嫌っていた。私はその同僚よりも後でその職場に仲間入りしたため、そもそも何故その同僚がその上司を嫌っていたのか詳しくは知らなかったが、さしずめ、評価に値しない部下が自分を評価してくれない上司に腹を立てていたというところだったと思う。

その同僚はある時こんなことを言っていた。「人は強く念じ続ければ、必ず作用する。だから自分は、あの上司が辞めるよう念じている」私はその言葉を聞いた時、何だかワラ人形に釘を打ちつけて相手を呪うのと同じことのような気がして気持ちが悪かった。

そしてしばらく後に、その上司は少しずつ体調を崩していき、しまいには仕事を辞めて職場を去って行った。

確かに彼の念が通じたのだろう。人の思いが現実化するというのは本当だと思う。それも負の方向には比較的成就し易い。


私が学生時代に親元を離れて暮らしていた頃のある日、湯を沸かしたやかんをひっくり返してしまい、足に熱湯がかかり火傷をしてしまったことがあった。薬もなかったが、夜中だったのでどうすることもできず、洗面器に入れた水に足を浸けてしのごうとしていたが、ヒリヒリとした痛みが止むことはなく、朝まで寝れずにいた。

すると早朝に、千キロ以上離れた実家の母親から電話があり、「あんたどうかした?」と尋ねられた。私が「夜中に足を熱湯で火傷した」と言うと、「やっぱり。あんたが痛い痛いって苦しんでいる夢を見たのよ」と母が言った。私が「大した火傷じゃないけれど、もう何時間も痛みが取れない」と嘆くと、母親は「なんでもいいから、サラダ油でもいいから油を塗りなさい」と教えてくれた。

それで私は(今では覚えていないけれど)なんかしらの油を火傷した足に塗った。するとびっくりするくらいに痛みは和らぎ、それから数時間の眠りにつくことができた。

確かにテレパシーのようなものが通じたに違いなかった。人の強い思いは空間上の距離に関係なく、瞬時に相手に伝わるのだ。


私たち人間は、いつしか忘れてしまったのか、それとも開発途上なのかはわからないが、確かに「思い」の伝達や作用という摩訶不思議なようで実はごく当然な現象手段を持っている。

「変わる」ということ

変化は安定である。

 
私は若い頃、自分は変わってはいけない。変わる必要はない、と思っていた。子供の頃から色んなことを考え、少しずつ価値観を形作り、自分なりの哲学や宇宙観を築き上げ、青年と呼ばれる頃には、それなりに何にでも対処できる理論武装を身につけて、個性的に人生を楽しむ方法を修得していたつもりになっていた。懸命に真面目に作り上げた自分だったから、他者の意見で容易く自分の考えを改めたり、ちょっとした失敗くらいで自分の処世術を修正する気など露ほどもなかった。井の中ではそれなりに支持されていた自分のキャラクターを裏付けている価値観を変えることは、格好悪いことだとすら思っていた。
 
大人になるとやがて、それまでの自分では通用しない、予想だにしなかった受け入れ難い出来事にいくつも直面することになった。そのときの自分のキャパシティーでは対処しきれないものだった。対処しきれない自分が悪いのではなく、対処しきれない問題を起こす相手が悪いのだと決めつけるしかなかった。自分の小さな器、狭い視野、柔軟性のない発想が自分を悲劇に陥れ、相手に罪悪を押し付けていることを受け入れきれなかった。
 
結局、それらの困難から脱け出すには、自分の凝り固まった価値観を変え、自分を修正するしかなかった。器を大きくし、視野を広げ、 発想を柔軟にするには、自分が信じてきたものを覆すしかなかった。
 
一旦変わる術を身に付けると、変わることが楽しく思え、変わることは方向転換ではなく進化なのだと気付いた。
 
そのときの状況がどんなに安楽で、どんなに完成されたように思えても、そこから変わらないことは停滞であり没落である。変わるということは、時間という次元概念を利用して変遷することである。私たちは時間のある次元に住んでいる。であれば、変化することを体験しにきているのである。
 
かつての私のように、変わることは、移り気であり優柔不断だと勘違いしている人たちがたくさんいる。言ったこと、誓ったこと、心に決めたことを曲げてはいけない、と。勿論、軽々しい明言と撤回の繰り返しは、ただの思慮欠如のなせる技だが、不変を美徳とすることによる硬直は、気付かぬうちに自分の足を退化の沼にはめている。
 
変わることこそが進展であり、好転でれ悪転でれ、変化そのものの結果であるが故に、好転を望むならば、必ず変化を経なければならない。
 
まわりを見渡してみれば、実に万物が着実な変化の途上にあり、植物は成長し、枯れ行こうとし、動物たちは絶え間ない新陳代謝を続け、無機質に見える物たちも、新たに築かれ、朽ちていき、永遠の化学変化を示し、ゆっくりと穏やかに変遷している。こういった自然の速度による変化のタペストリーとしての風景こそが、平和という抽象概念を表象したものである。
 
変化は安定である。
 
 

恐れるということ

恐れる、ということは、否定的な現実を選択しているということです。

人はうまくいっているときでさえも、ついつい不安を抱き、今の好調は続かないかもしれない、という軽い疑念を持ち始め、だんだん不安が大きくなり、やがて恐れとなり、確信に達すると現実となります。この流れはなかなか途中で止めれません。人にとっては、こういう風に、下に落ちる滑り台に身をまかせることは努力の要らないいとも簡単なことであり、そのために必要な負の連想も安易な想像力で事足りうるので、誰もが陥りやすい罠なのです。

逆に考えれば、自らすすんで自分の未来に恐れるべきことが起こりうるなどと想像しないことが重要で、少なくとも、ふと湧き上がった軽い疑念の段階で完全に駆除してしまうことが必須です。

こんなにも負の想像力が豊かならば、反対に正方向、つまり望ましいことの実現を想像することに専念し、その過程となる連想を、負の時と同様に上手に具体的に思い描いて行けたなら、自分の世界の明るい可能性が広がるでしょう。

ある偉人が言っていたように、「恐怖は信頼の欠如」であり、自分の世界に恐れを招き入れる人は、自分の世界の変幻自在な特性への確信がない人だということです。

自己監視

自分を監視することはとても重要だ。しかし、徹底して自分を監視している人をほとんど見たことがない。そこそこやっている人たちと、ほぼやっていない人たちを合わせるとほぼ全てかもしれない。

 
ほぼやっていない人たちは、そもそもそうすることの必要性や効力に気づいてすらいない。こういう人たちは、誰にも見られていないときとところでは、どんな醜態や場合によっては悪事さえも平気で振る舞うし、鏡に写して見ない限りは、自分自身を客観視することは皆無だ。彼らは自分だけの世界では何でもやりたい放題なのに、自分の目で直接見たり、自分の耳で聞いた自分以外の人の好ましくない振る舞いには、非常に厳しい批判と叱責を浴びせがちである。
 
多少自分を監視できる人たちは、少なからずの向上心があり、できれば自分の人生や境遇を改善したいと思っている人たちだが、彼らは自分の都合に調子が良く、部分的にストイックになれて、何かの目標みたいなものを達成すべく積み重ねていけるが、一旦自己監視がオフになると、エゴや怠惰や非情や下卑な言動で溢れている。
 
人間が神様を創り出したのも、自分より上の立場の存在から常に自分が見られているという状況を設定したかったからでもあるだろう。実際に世界のどこかでは、一日24時間神様に見られているという前提で、見られていても恥ずかしくない生活を慎ましく営んでいる非常に敬虔な方々もおられることだろうが、どの宗教にかかわらず、ふと、神様が見ていない時間を勝手に作ってしまいがちな人たちがほとんどであろう。それが、日本人のような、大多数が仏教を慣習のようにゆるく取り入れているだけの人たちは、自分しかいないときには誰からも見られていない、として振る舞う。
 
人間は、自分がどれだけ自分に厳しくできるかで、その人の人格や人生を左右する。いくら、目標や理想を持っていても、そのために行動していない自分を見過ごせば見過ごすほど、目標や理想からは遠くなる。つまり、世の中で成功していたり尊敬されていたりする人たちは、平均的な人たちに比べればかなりストイックで、自己監視能力が高いと言える。
 
経済的優位や地位、名声などを目標にしない場合でも、自分自身の精神性を高めたい、神に近づきたい、と思っているような真理探究者たちこそ、自己監視能力は極めて大事となる。彼らは、できる限り利己を排し、欲を抑え、怒りを捨て、平静な心情で生活することを心がけるのだから、自分の言動が常に客観的に評価されるためには、自己監視しかないのである。
 
まとめると、世の中には、他人の前でも家族の前でも自分一人のときでも音を出しておならをする人。他人の前では音を出しておならをしないけれども、家族の前や自分一人のときには音を出しておならをする人。他人の前でも家族の前でも音を出しておならをしないけれど、自分一人のときには音を出しておならをする人。他人の前でも家族の前でも自分一人のときでも音を出しておならをしない人、に大別される。そしてこれらは、各人の明確な選択によって行われている。

自分の子供が大好きで愛おしいならば

私は、自分の子供がとてもとても大好きだ。何を当たり前のことを、と言われるかもしれないが、理屈ではなく単純に大好きだ。自分がこの世に生まれてきて今まで持った感情の中で、自分の子供を愛おしく感じる以上の幸福感を味わったことがない。

 

もちろん、子供は親の所有物ではないし、それぞれの役割や立場は違えども親も子供も対等な人間同士だと思っている。しかしながら世間では、あたかも子供が親の所有物であるかのような考え方をしたり、親が子供の存在に依存した行動を多くとっている親がちょくちょく見受けられるのも事実であろう。

親が、いつまでも子供と一緒に過ごしたい、そう思うのは仕方ないとは思うが、思うのとやってしまうのではわけが違う。しかし、最近は、自分の生きていく楽しみを子供に転嫁し、子供の生活や将来を自分の手の届くところである程度手も出したいと思っている親が少なくなさそうに見える。そういう親の場合、多くは、自分の人生に挫折したり、諦めたりしていて、自分自身の未来においては大した発展の可能性も見い出せず、発展する可能性があるのは、自分の子供の成長と能力や子供自身の世界だけだと思い込んでいるようだ。

 

子供は親のしたことを繰り返す、と言われるが、子供の存在に依存する親たちのすべてが、自分もまた自分の親に依存された、というわけではないだろう。しかしながら、繰り返してしまっている人たちもたくさんいそうではある。そうであっても、そうでなくても、実態としての性質は似ている。自分が空っぽなのだ。無論、本人はそう思ってはいないし、それを指摘されても激怒するだけだろう。自分も親に依存された人たちは、不幸せな親に過干渉され、嫉妬され、喜怒哀楽をぶつけられ、いつしか親が望むことに応えることが自分のなすべきことのすべてとなって、自分自身のために自分で考えて行動する、という当たり前に必要な思考、行動様式を会得できなかった結果、親に応える自分ではない個の存在としての自分が不在となってしまっている。親に依存されなかった人たちの場合でも、目まぐるしくその価値や道徳を変えていった社会の風潮や要請に振り回され国家や経済世界にそそのかされだまされた結果、ぶれない不変の自己が形成できず不満ながらも社会に迎合し続けた結果、社会に対応するだけの自分ではない個の存在としての自分が不在となってしまっている。

 

自分の子供を愛おしく思うのは、基本的にはただの本能だ。この部分はおそらく原始的な人間社会から今に至るまで、ほとんど変化はないだろう。しかしながら、社会が要求する親子関係のあり方や子供の教育方針は、場所と時代によって様々に変わっている。私たちは常に、時代というよりも、その時代の経済世界やそれに影響される国家の都合と思惑によって翻弄され、振り回され、利用され続けてきたのだ。

第二次大戦中には、国民は国に尽くすべきものだと親子ともども教え込まれ、自分の子供を兵隊として強制的に取り上げられ、平和な時代には、働き、購買し、消費するためにコントロールされ、また、いつしか平和でなくなったときには……。

 

親が骨抜きでは、子供は導けない。子供は親の所有物ではないし、ましてや国家の所有物ではない。しかし、子供たちは親の能力や都合以上に、国家の能力や都合によって運命が左右されてしまう。私たち親は、子供たちが国家や経済世界に誘導されるのを黙って見過ごしてはいけない。そのためには、私たち親が、骨抜きではいけない。モノや娯楽で薬漬けのようになって奪われた、考える時間と意志を取り戻さなくてはならない。

 

私たちが、本当に子供を愛しているのならば、子供たちの未来をおかしなものにされないように、まずは自分たちが目を覚まして、子供たちを自分たちの手で導かなければならない。

日本人として

私は日本人として日本で生まれました。

そこはアメリカに戦争で負けて、アメリカの軍隊が駐留している不思議な独立国でした。

原子力爆弾を世界で唯一、しかも2発も落とされた被爆国でした。

散々な負け方をしたので、戦争をしないことを憲法で誓う国になりました。

日本人は暗い、はっきりしない、おどおどしてる、つまらない、と言われて育ちました。

アメリカ人は明るい、はっきりしている、堂々としている、楽しい、と言われて育ちました。

日本人は不格好だが、時間に厳格で勤勉だと教わりました。

外国人は綺麗だが、時間に曖昧で怠惰だと教わりました。

大人になる頃には、日本は世界一の経済大国と言われていました。

世界中の高級品を買い漁る日本人を、外国人が嫌な顔をして見過ごしていました。

間もなく、日本の景気は悪くなりました。

実体のないものに利益を生ませた当然の成り行きでした。

地震原子力発電所が爆発したので、原子力発電を止めようとほとんどの日本国民が誓いました。

間もなく、政府と大企業は、原子力発電は安全で効率的だといって、再び自国や外国に売り込み始めました。

今では、日本人は親切で優秀で選ばれた民だという声を聞くようになりました。

戦争をやってもいい国に変えられ始めました。

世界の大企業のための貿易条約が中身も知らされずに秘密交渉されています。

日本の空にアメリカ軍の飛行機が頻繁に化学薬品を散布していることが明白なのに、政府は何も国民に知らせてくれません。

政府は大企業のために一所懸命働くようになりましたが、それは庶民からの搾取という犠牲を強いることでした。

世界で起こっている事件を、味方の都合のいいようにだけしか報道しなくなりました。

誰が味方で誰が敵なのか、何が本当で何が嘘なのか分からない疑心暗鬼にさせられてしまいました。